見出し画像

日本人はじつは西洋的な意味での芸術=アートなど必要としていない?

分節化、言語化、論理性、構築性、体系、歴史意識等々、西洋芸術は本質的に学問的であり、理詰めの世界であるといってよい。理詰めであるがゆえに「展開」「進歩」「革新」というものを持ち、汎用性と拡張性を備え、社会的機能を持つ。
西洋的な芸術つまりARTの世界は、科学と哲学というバックボーンがある。
日本社会における「アート」への無理解を嘆く者は多い。そのいっぽう、芸術はリクツではないとし、芸術における理論、論理、概念化と体系化の作業を嫌う者も多い。欧米社会において芸術が社会に浸透し常識として根付いているとしたら、それは科学と哲学というバックボーンによるわけで、言語化(理論化)と体系化が伴うからである。

芸術はリクツではない。そのとおりだとおもう。芸術は非言語的、非論理的なものであり、というか超言語的、超論理的というほうがいいかもしれないが、究極的には頭で理解するものでもない。しかし、そこで話がおわるとき、当然のことながら、けっしてそれは社会化されえないだろう。つまり学校における美術教育、アーティスト育成援助、誰もがアクセスできるコレクション・アーカイヴの充実といったものは望めない。芸術はシステム的には整わない。それが日本で起こっていることだと思う。それは一見ソフトはあってもハードウエアがないと状態にみえるが、しかし例えば日本には美術館というハードウエアはありすぎるほどあって、むしろ足りないのはソフトのほうだというふうに思える。
ようするに、もし日本社会で芸術というものが機能不全であるというなら、足りないのはハードでもソフトでもなく芸術における理念なのだろう。プログラミングがなされていないのだから、動くわけがない。

7.15 2015 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?