「死」が非日常の現代で生きる僕ら
僕は基本的にいつも何かしらのことを考えて日々を生きている。
仕事をしている時、ボーッとしている時…。
まだ不完全だけど、若干まとまってきた感があるから一旦まとめようと思った。
ざっくり言うと「死」について。
基本誰かに喋りながら意見をまとめるタイプゆえ、独り言か唐突に誰かに電話する。
唐突に投げかけられたり、一方的にバーっと話されるのに、話を聞いてくれる友達には本当に感謝だ。
「死」についてと言われたところで、その中でもいろんな方向から考えてるんだけど、その中でも「死」が人間の中で日常か非日常かと言われると非日常の方に分類されるかなと思う。
僕は、ジブリとかハガレンが大好きゆえ、哲学的な観点や生物学や生態的な観点で考えるのが好きだ。
全ての動植物の最後にあるのは死すること。
それゆえに人が生まれて死ぬという行為は、自然界では普通のこと。
なのに、日常として捉えられてしまうのはなぜだろう。
その理由として、文明の発達により死する現場や慣習と向き合う時間がなくなってきているからと言うのが今のところ一番納得いく理由。
自然界では、弱肉強食で弱いものは狩られ食される。
自然に死したとしても、その肉体は現場に放置され、分解され、土へと返る。
大袈裟に言えば、死体が日常の風景でよく見かけると言うことに等しい。
文明が発達し、外ではなく家や病院といった建造物の中で死ぬ人が多くなった。
そして、土葬や火葬というものが発達し、死した肉体を日常で見かけることがなくなった。そのかわりに、生きていた証を残すことにした。
誰かが死んだ現場に居合わせた人は、「死」について向き合うことができるかもしれないが、そのような現場にいなかったものにとっては日常として捉えることは確かに難しいかもしれない。
そうであったとしても、「死」を日常として感じて生きた方がいいと思うのは、いつ死んでもいいようにという価値観があるからというのが1つ。
それとはまた別に、自分のキャパシティが広がるからだと思ってる。
「死」を日常として捉えられれば、生きている中でやってくるイレギュラーなことにも落ち着いて対応できると思っている。
話は少し脱線するが、今回のコロナもそのイレギュラーだと思ってる。
確かに経済が回らなくなって、自分の仕事もなくなってとかダメージはもちろんあって、どうしようとなってるのは事実。
まあ、あくまでもお金の観点でしかないけど…。
少し遠ざけて考えてみると、コロナは人間にとって都合の悪いものであるからこんなに大騒ぎになるんだなと。
長い時間をかけて作り出した、人間にとって最高の環境を崩されているのだから。
コロナは人間が生み出してしまったものかもしれない。
コロナに打ち勝つっていう感覚が普通なのかもしれないけど、死というのを日常として捉えるならば、打ち勝とうとせず共存する方が賢明なのではないかなと思うよね。
人間もウイルスも宇宙も複雑で謎だらけ。
今回のコロナも自然の出来事として捉えるならば、体の都合だよね。
まだ完全に解明できてないものを管理しようとするからパニックになるんだよね。
ほっといても抗体ができる人間がいずれ現れるからいいと思うんだ。
話は戻り、このことについて考える時に解剖学者の養老孟司先生の言葉が一番胸に刺さった。
「人は100円で殺せても、100円では作れない」
すなわち、100円ショップでカッターを買ってきて、切れば人は簡単に死ぬ。
それだけだと、脆いものだと思う。必要な物質や量がわかったところで容易に作り出すことはできないのだ。
それは人間も自然の流れから生まれたものだから。
殺されようが病気で死のうが、全ての人間の死亡率は100%。
100%なのであれば、日常として捉えられればなんか面白くなりそうじゃない?
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