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家族の風景(民報サロン 2019年1月16日より転載)

 今年の年末年始は帰省しなかった。特段理由はなかったが、福島に移住して一年目、実家に帰らずじっくり一人で過ごしてみるのも悪くないと思ったからかもしれない。結局丸森町に住む友達に誘われ、大晦日から元旦は友達の家で過ごすことになったのだが、そこに向かう道中、ふとカーステレオからこんなフレーズが流れてきた。
「キッチンにはハイライトとウイスキーグラス/どこにでもあるような 家族の風景」
 永積タカシさんのソロユニットであるハナレグミの、「家族の風景」という曲だ。この曲を聴いた瞬間、なぜだか胸がいっぱいになってしまい、思わず僕は音量を上げた。
 歌詞に共感したのではない。僕の父親は下戸で、ビール一杯で顔が赤くなる。もちろんウイスキーなど飲まないので家にはウイスキーグラスも無いし、煙草も吸わない。でもどうしようもなく自分の父親、母親の姿が思い出される曲なのだ。
 この曲には、よくある「家族への感謝」も、またその逆の「親への拒絶」の言葉も、どちらも入っていない。ゆったりとしたアコースティックギターのアルペジオにのせて、タイトル通り家族の姿が描写され、それをみている[私]の心情が少しばかり吐露されるだけだ。その最小限の言葉の中から、家族に対する想いや距離感が浮かび上がってくる。なれなれしくはない、でも決して冷たくもない、じんわり暖かい気持ちにさせる魅力が、この曲には宿っている。
 家庭を持つ、というのはどういうことなのだろう。友人たちの結婚報告も増えてきたこの頃、時折そんなことを考える。自分はなぜそこに他の人と同じくらいの熱量を持てないのか、という疑問も含めて考えた末、捨てられないからかもしれないな、と思った。選ぶということは、他の選択肢を捨てる、ということだ。結婚して、子を産み、育てる。その過程の中で、自分の持つ何かを手放すこともやってくるだろう。あり得た別の未来、別の人生。それらを手放して、誰かの居場所をつくる。それは、自己犠牲、というような陳腐なことではなく、人に対する慮り、その在り方そのものなのだろう。そんな風に人を想うことを、僕はまだ想像できない。
 原田郁子さんの弾く、胸をしめつけるようなオルガンのソロが終わった後、歌詞はこう続く。
「何を見つめてきて 何と別れたんだろう/語ることもなく そっと笑うんだよ」
 そして一呼吸おいて、冒頭の風景描写の歌詞が繰り返される。手放した未来については語られないまま。ここで零れ落ちる切なさが、この曲の一番のハイライトだ。
 ついひと月ほど前、一番下の妹が成人した。子育てがひと段落した両親は、いまどんな気持ちで過ごしているだろうか。その心の中は僕には計り知れないけれど、どうかこの曲のような「風景」を僕らに見せてくれていたことを知っていてほしい、そんな風に感じた年の暮れだった。

(写真・文章 / イノウエ)

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