常識の正体
今日は常識について考えてみようと思う。
常識とは、人間にとって当たり前の行為や物事、共通意識だ。一方で、組織や会社ごと、社会のカテゴリごとでも常識は異なる。例えばスーツで出勤する会社もあれば私服OKな会社もあるし、飲食業は過度な装飾品はNGだが、アパレル業ではおしゃれな恰好が前提となっている。
また、同職種でも組織単位で細かく見れば色んな常識が異なっている。自分で考えて行動するのが評価される組織もあれば、ミスをしないことを評価される組織もある。小さい単位だと家族や友達同士、大きい単位だと都市や国家単位でも異なる常識は存在する。
なぜ組織ごとに異なる常識が存在するのか?
なんで組織ごとに常識が違うのだろう?と考えていたときに、特定の人が才能を発揮できる環境を構築するためのルールが常識の正体ではないか?という結論が出た。
最初に、その組織の環境に適応できた人たちが自分たちが生きやすいルールを醸成していき、その中で結果を出してきた人たちがさらに、経験を反映したルールを新たに追加していく。これが会社や町、国家という単位となって、どこかのタイミングで「常識」として突如現れるのではないだろうか。
「こういう姿勢、取り組み方で物事を行えばうまくいくのでその通りにしなきゃいけないよ」というものがその組織の「常識」となって醸成されていくため、常識は基本的にその環境の勝者たちに都合のよいルールとなる。逆に、その環境に適応できないけど、実は素晴らしい才能を持っている人たちは自然と淘汰されていくのが常識の性質となっているのではないだろうか。
また、時間が進めば進むほど、ルールが醸成されていき、特定の人は才能を発揮できるけど、そうじゃない人は適応できない環境が構築されていく。
組織の常識形成と停滞の関係
会社や国家などの停滞は、常識形成と大きな関わりがあるのではないだろうか。
常識とは、たまたま環境に適応して偉くなった勝者側が作ったルールであり、その環境に適応できる人間が勝ちやすくなっている。しかし、一人一人適応しやすい環境が異なるため、特定の才能のみが発揮される環境は、特定の人間しか成果を出すことしかできなくなる。しかし、組織が大きくなるにつれ、多種多様な人々が関わるようになるため、停滞が生じるのではないだろうか。
常識はマジョリティ?
こう考えると常識に適応している人たちはマジョリティ側だと思っていたが、属している組織の常識に適応しにくいマイノリティ側の人たちは、実は少数ではないのかもしれない。
つまり何が言いたいかというと、常識とは、たまたま環境に適応して偉くなった勝者側が作ったルールなだけで、多数派ではないということだ。
そのため今の常識的な考え方、~歳までに結婚するべきとか、年収~万円以上がよいとされるとか、もっと言うと「結婚をしなければいけない」だったり、「仕事をしなければいけない」といった考えすら全ての人に当てはまるわけではない。今ある常識によって才能を発揮できる人が、そのルールに基づいて行動すればうまくいくという指針なだけなのだ。
なので、環境に適応してきた人たちが醸成した自分勝手な常識に惑わされずに、自分の才能が発揮できる場所を見つけられたらとても幸せに生きることができるんじゃないかと思いました。