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約1年間のお休み期間で気付いたこと。

肉体が無くなっても生きた価値って、
きっと無くならないんだなぁ…
あの美しい夕日や、
わたし達がふと目にする美しい景色は、
自分の美しさ(価値)を忘れないでねっていう、
そんな天国からの祝福なのかもしれない

✳︎ ↑大事なことを思い出したので、同日12:05に追記しました。


スクリーンタイムを減らしてみよう、SNSをやめてみよう、
そう思ったのは、お仕事をお休みしていた間のことでした。

わたしは昨年の9月頃に「本当にやりたい!」と思うことに出会い、
そこから「本当はどうしたい?」に粛々と向き合い始めたところ、
それまでのコーチングのお仕事を自然と絞りたくなると同時に、
それまで張り詰めていた疲れのようなものがどっと出始めて、
昨年11月頃から仕事を休みました。


世の中に貢献していない?

休み始めて数ヶ月。
疲れや不調を一通り出し終えた頃、体調が変わり始めました。

そして仕事もせず、SNSもやらず、
主婦業・ママ業も以前より手抜きにし、
それまで積読にしていた本を読んだり、
漫画やアニメ、映画を観て、外を歩きました。

そんな矢先、
とある訃報がキッカケで、

あぁ、わたしはコーチでもなく、
子どもたちのママでもなく、
夫の妻でもなく、
PTAの裕子さんでもなく、

太ろうが、痩せようが、
体調が良かろうが、悪かろうが、
何をしようが、しまいが、

「ただのわたし」っていうだけで価値があるんだなぁ、

なんなら、
肉体が無くなっても生きた価値って、
きっと無くならないんだなぁ…

あの美しい夕日や、
わたし達がふと目にする美しい景色は、
自分の美しさ(価値)を忘れないでねっていう、
そんな天国からの祝福なのかもしれない

と思いました。


日々、
子どものお世話や主婦業を最低限やっておくくらいの生活の中で
なにか「世の中に貢献してるっぽいこと」を全て手放し、
SNSなどの外部情報もほとんど入れない生活の中で
突然の訃報があり、ふと気づいたのです。

故人が教えてくれたように思いました。

なんにもしてないっぽいけれど、
子どもと一緒に生活して、

夫が稼いでくれたお金で買い物して、
世の中の経済に貢献して、

私がお昼寝していると、
子どもは私が家にいるというだけで休まるようだし、

夫にとっては「ビジネスについて何も知らない妻」だからこそ
仕事の話を私にする価値があったり、

なんならわたしが吐いた二酸化炭素を必要としている存在もいるよね?
そこの観葉植物とか。

わたしの体温につられて、我が家の猫達もくっついて隣で寝ます。

あれ?わたし生きてるだけで、めっちゃいろいろ価値あるな・・・と。



生きる目的≠生きている価値

わたしは「生きる目的」と「自分が生きている価値」を混同し、
なにかのために生きていないと、
自分が無価値だと勘違いしていました。

本当は、生きてここにいるだけで、
なんなら、もう肉体が無くなってたとしても、
「生きた」「生きている」というだけで、
めっちゃくちゃ価値があるのに。

そりゃぁ、「生きる目的」は大事でしょう。
どこに進んでいるか?という目的地は、あった方が良いです。

人生を終えて、初めてわかる、
「このために生きた」もあるかもしれない。

だけど、
それが見いだせない自分はだめなやつだ、とか、
自分に価値を見出すために「生きる目的」を見出そうとするくらいなら、
そんなものはいったんガン無視したらいいです。

そんなときは、
「生きる目的を探す」という行為自体が、自己否定になるからです。


無名の人生を生きるという価値

昔は、「有名になるなんてダサい」と考える人もいました。
江戸時代は仕事をするより、遊ぶほうが「粋」でした。

物を所有したがらなくなったり、
世間的に成功することに価値を見出さなくなって来ているのは、
一周回って、今の若い人たちにも少しずつ現れている傾向だと言えます。

追いつけ、追い越せ、頑張れば報われる、の「バブル時代」の価値観は、
もうマイノリティにすらなりつつあり、
なんなら現代では「ダサい」くらいの価値観になりつつあるのかもしれません。

「右肩上がりに成長することを当たり前、良し」とする親世代を横目に、
Z,α世代は、「それ美味しいの?」と言った具合です。

誰もが大谷翔平さんのようでなくていいし、
「好きなことを仕事にする、そうやって夢を叶える」という理想も
私たち世代(70〜80年代生まれ)の人が抱きやすい思い込みの1つなのかもしれません。

無名の人生を生きる、という価値があります。


リラックスして生きる

わたしは結局約1年ほどになったお休み期間を通じて、

成功しても、成功しなくても、わたしの価値は変わらない。
どれだけの肩書があっても、
わたしがわたしであることは変わらないし、
そこにいつもわたしの価値はある

ということがわかりましたし、
むしろそういう自分で生きたい、と思いました。

有名にならないようにするとか、
成功しないようにするとか、
そういったことではありません。

有名だとか、成功しているとか、世の中に貢献しているとか、
そこに自分の価値は同化させない。

私の価値は私がいつも決めるし、
いつもここにある。

成功するとかしないとか、
仕事をするとかしないとか、
そういう小さなことには何もこだわらなくて良くて、

わたしはもっとリラックスして、人生を楽しんでいい!
なんなら、それを伝えることに使命がある!
その先に「わたしの人生の目的」もついてくるのだ、と。

これが腑に落ちたら肩の力が抜けて、
同じことをしていても、以前よりもっと楽しめるようになりました。


「主婦の裕子さん」を肩書にしたのは…

こうして発信業を再開しましたが、
以上のことから、あえて肩書を「主婦の裕子さん」にし、
普段のいつも通りの自分を大切にいよう、と思っています。

なんなら主婦業も後回しでいいのです。笑
その辺によくいる人、というニュアンスです。

進化したらまた変化するかもしれませんが、
今の私にはこれが心地よいのです。

これまで通り、自分の「こうしたい」を中心に生きながら、
その一環として発信業もやる。
カウンセリングのお仕事も、ぼちぼち再開予定です。

しばらくは『私用、家庭>お仕事』という優先順位で行きたいので、
仕事をガッツリ毎日、というほどではありません。

とはいえカウンセリングのお仕事も発信業も大好きなので、
こっちも私なりのバランスを試みながらやっていきます!

こうして何気ない普通の人生を生きながら、
そんな無名の人生を生きている価値を大切に伝えたいし、
実は「普通の人生」なんてないのだとも思います。


ただ、特別に、特別な存在になろうとしなくてもいいのです。
すごいことや、目立つことをしようとしなくてもいいんです。
みんな、すでに特別だから。


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