本音は勝手に表れる。本音に忠実に楽園を創る。
日本で育児してても、幸せになれる。
まだまだ「私の楽園」開拓中。
あんなに嫌だった、本帰国。
なんで大好きなタイを、
離れなければいけないの。
そう思った。
ここで育児することすら、
私には大変なことなのに、
日本に帰ったらどうなるんだろう。。と。
でも結果的に、
今の方が、いろんな生活がラクだ。
今の生活って、結局、
あの頃の私が望んでいたものかもしれない。
不本意と思った本帰国も含め、
それは私の楽園計画の一部だったよう。
そうは言っても、
タイ時代はタイ時代で、
長男と家族3人で、
たくさん移動して、たくさん冒険して、
素晴らしい日々だった。
ただ、、
次男の生まれた今、
男児2人連れてあの生活をしたいか?と言うと
答えはNO。
良いタイミングで、
然るべき土地に移動した気がしている。
結局、
心から望んだ生活は手に入るし、
それしか手に入らない。
その望みを、
自覚しているか否かは別にして。
「こう在りたい」と望む方に、
人は自然と傾いていくものだ。
その、
自覚しているかいないかの「望み」を、
「本音」と呼ぶのだろう。
「本音」に陰陽のごとく表裏に付きまとうのが、
「罪悪感」というもの。
「罪悪感」を感じさせるのは、
いつも心ではなく、頭、思考だ。
「本音」を実現させたいとき、
たいてい「罪悪感」が付きまとってくる。
それは人によって異なるけれど、
私の場合、
・周りと同じでいられない
・良い◯◯でいられない
とか、そういうものだ。
そんな風にいられなくたって、
いいのにね。
先日、在日外国人のお友達と話していて、
ふと気付いた。
彼女はすごく日本語が上手で、
日本人の習慣にも慣れていて、
まるで日本人のように振る舞う事もできる。
ローマにいればローマに従え
が、できる人なのだけれど、
やりとりのほんの小さな部分に、
彼女のナショナリティが出る。
それが良いとか悪いとかではなくて、
(タイにいた時の私もそうだっただろうし)
その現象自体に、
「らしさ」とはこういうものなのだ、
と気付かされた。
「らしさ」って、言い方を変えると、
「本音で望んでいる在り方」だと思う。
自分が日本人だっていうのと同じくらい、
当たり前に染み付いているもの。
こういうものって、
どれだけ「こう在らねばならない」と、
自分を別の型にはめようとしても、
その人の片鱗として、
勝手に現れるものなのだな、と。
端的に言うと、
本音って勝手に滲み出るんだな
ってこと。
面白いことに、
同じ罪悪感を持っている者同士だと、
同情や共感と言った補色効果が出て、
無自覚でいる本音に関しては、
お互いに見えない。
日本人同士で話していれば、
お互いをわざわざ日本人だと自覚してコミュニケーションを取らないのと、
同じようだ。
同じ罪悪感を持っているということは、
同じような本音を持っている、
とも言える。
でも、
その罪悪感を持っていない人からしたら、
その罪悪感も本音も
丸見えなんだろうな〜と思った。
なんかそれ、こっぱずかしい。笑
先日見つけた、こちらの記事。
「自分の人生を生きていないとき」人は病気になる
本音で生きていないと、
身体がそれを表現するよ、
という意味だと捉えました。
本音と罪悪感がワンセットだとすると、
病気の素は罪悪感、とも言える。
「本音の片鱗」って、
こうして身体が表現することもあるんだろうな。
どれだけ意識的に表現しても、
無意識から、勝手に本音が表現される。
だから勝手に、
人生って(本音で)望む方向に、
傾いていくんだなって思った。
言いたいのは、、
本音なんて、
わかる人からしたら、
とっくに見えちゃっているんだから、
とっとと実現させちゃえば。
ということ。
誰にって、自分に。笑
恥ずかしがったり、
遠慮したりしてる場合じゃない。
本音に気付いて、
受け入れ、
実現できるようにしていけば、
もっともっと「らしさ100%」で
純度高く、生きられるようになるはず。
そうしたら、
私が日々抱えがちな体調不良も、
手放せるんじゃないかなぁ、って。
それってきっと、
心も身体もとってもキレイで、
とっても気持ち良いんじゃないだろうか。
その感覚を味わってみたい。
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