おはようございます。珍しく朝の更新です。
■ 本日の1枚
今日の抽象画は珍しく朝起き抜けに描いたものです。いつもは深夜寝る前のルーティン的な感じで描いています。朝の光が砂道に反射している様子のイメージに近くなりました。
最初に下地として敷いたのはヒトの皮膚のようなピンク色。
昨日から、色の調合に「値」という方法を使って右手の指で6つのバーに適当に触れながら次に乗せる色を選ぶという偶然性の高い方法をとっています。
製作時間は7分です。この記事を書いている時間の方がはるかに長い。
タイトルの「大河」は「大河ドラマ」から。主人公の幼少時代によくこのような雰囲気の小道を歩いているイメージがあります。上の方のゴールドじみた色合いも大河ドラマのイメージ。
右側の黄緑は一番最後に入れた色で、真ん中の光の小道を強調する影の役割と、アクセントカラーを兼ねています。色調補正を使ってこのフレッシュな色味に決めました。
季節は夏。木が地面に影を落としていて、この絵の主人公はそれを見ながら歩いているのかもしれません。
この絵の主人公、という概念が新しいなと今ふと思いました。
■ 絵に主人公は存在するか?
抽象画は、一人称の視点の芸術だという感覚が今芽生えました。私は美大出身なのですが、美術予備校時代の恩師の画家としての作品を個展で一度だけ見たことがあって、その時に感じたのも強烈な一人称の視点だったことを思い出したのです。
自分にとって心地いい音楽というものもそれに近いのかもしれない。
なぜなら雰囲気とは、ムードとは、主観であるから。
知覚する”私”の存在がありながらも、そこから逃れる自由のある束縛の少ない音楽。絵画。芸術。そういうものが好きだ、と明確に感じる。
人の注意を惹くことだけが表現の目的でもなければ良さでもない。確かにそこに存在するのに、心地いいのに、いつでも離れることができる自由がある状態が好きなのだと思う。
単なる好みの話かもしれないが、日常的にそういった物作りを心がけ、そういった存在に囲まれて生きていくことができたらとてもとても幸せなことだと思う。
物語の主人公が理性の管轄にいる存在だとして、絵や音楽の主人公は本来見る人自身(作者も含め)なのだと思う。
だから物語の主人公を示す歌詞が存在する”歌”というジャンルの音楽は、とても理性的で、ある種ちぐはぐなものなのかもしれないと、長年の違和感を鑑みて思う。
それでも私は抽象であることを極めたい。歌という分野でも。
おそらくこういった感覚が、架空言語の歌唱を愛することに繋がっているのだろうと思う。
■ 今日の一曲
ちょうど話題に出たので架空言語の曲を。
2021年の曲の中で何故か1番ほっとする、大切な曲です。気がつくとたまに頭の中で流れていて、気持ちの調律をしてくれている気がする。
■ おわりに
毎日noteを書きながら、こうして過去の記憶を掘り返していくのも面白いなと思いました。
ただ、頭の中の考えごとを追おうとするとどうしても文末の敬語が抜けてきてしまう。思考のスピードに表現のスピードが追いつかなくなるからだと思います。
敬語を使う時、私は他者の存在を強く意識するし、それが人に話を聞いてもらうための最低限の態度だとすら思っている節があります。
ここのところの文章が読みにくかったり難解だったりする自覚はあって、ただそれを噛み砕いて丁寧に説明している暇がない(投稿時間を見るとわかりますが、割と毎日ギリギリです)ので敬語を抜いて書き散らしていくというスタイルに落ち着いてきました。
自分が文章から声音を感じるタイプなので、汚い言葉を使っているわけではなくても、敬語がないと「頭でっかちで高圧的、自己中心的で内向的」という伝わり方をするのではないかと思ってドキドキしてしまうんです。
ドキドキしてしまうんです、なんて言い方も今更白々しいか。最近の感じだと、そういう伝わり方をするのではと不安になる、と書いただろうな。
こうやって敬語のパートと敬語なしのパートを意図的に混ぜると途端に情緒が不安定に見えてくるので面白いです。
これもひとつの気付きですね!
ここまで読んでくださりありがとうございました。
ではまた次回!
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