【自分史③】高校時代の私
もう剣道はやりたくない。
といって先生からいただいた推薦入学のお話を断り
(父が私学の学費払ってくれるとも思えなかったけど)
母のいうまま、
学区2番目の府立高校に入学した私。
高校へは自転車で40分。
風の日も雨の日も(かっぱきて)通ってました。
電車でも通えるんですが、
地下鉄→JR環状線→近鉄と2回乗り換えた上に
15分くらい歩く場所にあり、1時間以上かかってしまうので
自転車の方が早かったんです。
旧制中学(尋常中学校)から続く古い学校で
私が入った年に 高校50期生、
旧制中学含めての100周年記念イヤーでした。
体育会系にあらずんば、人に…
古い学校だからか、超体育会系の高校で(公立だけど)。
この高校を受ける生徒は
受験前に必ず、中学体育の先生から
「この高校は、めちゃくちゃ体育が厳しいけど、大丈夫?」
続けられる??と聞かれます。(私もいちおう聞かれた)
私は中学からがっつり運動部だったので
何とかなったんですが、
体育が始まる前に
校庭3周(1周1キロある)走っておくとか
(マラソン大会もめっちゃ長かった…)
水泳もめちゃくちゃ泳がされる
体育の授業が多すぎる
体育祭がすごすぎる
(軍隊みたいなエッサッサがある)
とかとか。
でもみんな事前に聞いて入ってくるから、
走れない…とか泳げない…とかいう人は数人。
(その数人の人は本当にかわいそうだった)
そんな高校なので、
基本的に運動部に入ることになっていて。
(決まりではないけど、自動的にそうなった)
私服OKの高校だったのに
体育会系部は「私服NG」が多かったので
ほとんど私服の子がいなかった笑。
文科系の部活もあったんだけど
いろいろなことが「運動部優先」になっていて
肩身が狭かったと思う。
また剣道部に入った私
剣道部に入る予定はなかったんだけど
他に入りたい部活もなくて。
高校で新しく友だちに誘われて見学行ったら
先輩は一生懸命誘ってくださるし、
同じ学年の女の子は3人しかいなくて。
そのうちの1人の子は初心者で!
(マネージャーは3人もいたのに笑)
これなら、ゆるーくできて
それはそれで楽しいかも。と思って入部しました。
2年の先輩がいなかったので、
3年の先輩(女性は1人しかいなかった)が引退して
すぐにキャプテンになりました。
(女子部員3人だけど笑)
気の合う友だちが多くて楽しかった
部活の友だちとすごく気が合って!
まさに「箸が転んでもおかしい」みたいな。
部室であーでもない、こーでもない
話をするのがめちゃくちゃ楽しかったです。
そのうち部内で恋愛する子もいて
中学時代は味わえなかった「学生生活」を
高校では満喫できた気がします。
(自分にはそんな話なかったけど)
高校の部活メンバーとは
今でも連絡取り合っててたまに会ってます!
(中学の子たちとは全然会ってないなー)
全然ついていけなかった勉強…
当たり前なんですが、
学区2番目の高校に入るほど
勉強してこなかった私。
ここでめちゃくちゃ落ちこぼれました。
特に理系がまるでダメで、
「何がわからないのか、自分でも分からない」状態。
仲のいい友だちが一生懸命教えてくれるのですが
その子の言っていることが、まるでわからない…
テストの度に、「赤点とって、補修」を繰り返し。
今思うと、数学や物理の
「こういうことになってます」という前提から入る
ところの、その前提について
「なぜ、そうなるんだろう?」
と引っかかってしまっていて。
友だち曰く、
「それはそういうことになってるから、考えなくていいの!」
って言われて、頭ではわかるんだけど、そこから先にいけない…
みたいな状態になってました。
先生はおもしろかった
体育教師はもちろん、
日本史の先生、英会話の先生も
数学の先生、芸術の先生も
個性的で独特な先生が多くて。
中学時代は、
横暴な先生が多かったので
(ヤンキーが多かったから仕方なかった)
母のいうままに高校を選びましたが、
気の合う友だちもできたし、
この高校にしてよかったです。
勉強できなかったけど、
それで怒られるとかも全然なかったし、
みんな自分の教えてる教科が
本当に好きなんだなーって
伝わってくる気がしました。
3年生から予備校に通う
3年生から理系と文系のクラス分けがあり、
私はもちろん文系を選択。
8クラスあって、
文系5クラス、理系3クラスだったかな?
大学受験せずに専門学校行く子も
少数派だったけど、自分の友だちには結構いて。
私は3年から塾(予備校)に通いました。
予備校に入るときに、クラス分け試験があって
文系は英語の試験だけでクラスが決まるんだけど
英語ができなくて希望する(関関同立)クラスには入れず、
ずっと産近甲龍クラス。
この時点で、国公立は自分には無理だな…と思ってました。
古本屋で出会った1冊の本
部活も2年で辞めてたので、時間があった私。
(先生ともめて辞めた気がするけど理由を全然覚えてない…)
私が小学校くらいから数年かけて
近所にあった文化住宅を取り壊し
大きな府営住宅と府立図書館に建て替えることに。
(友達が引っ越して、数年後に帰ってきた)
高校の時に、その大きくてきれいな府立図書館ができて、
しょっちゅう入り浸って本読んでました。
それとは別に、古本屋で本買ったりもするようになり、
その時に見つけた1冊の本に、衝撃を受けて。
その本が「ものぐさ精神分析」(岸田秀)なんですけど
詳しい内容は覚えてないんですが、
人のこころや行動を分析する、
分析して対処する。
そんなことができるんだ!と。
思春期で自分の気持ちも
まわりの気持ちもワケが分からない。
これから先のことも、どうすればいいのかわからない。
でも、こころや行動を分析してみることで
解決することもあるのかもしれない。
という希望の光が見えたというか…
中学校の時に、体は強くなったけど
こころは強くなれなかったと思っていたので、
「心理学」を学ぶことで
こころも強くできるかもしれない
と思ったのかもしれません。
そこから心理学の本(河合隼雄)、哲学の本(梅原猛)、
宗教の本(ギリシャ神話とか遠藤周作)とか
図書館で読んだりしてました。
その頃の私の家庭
その頃も相変わらずワンマンな父のせいで、
家の中では自由が全然なくて
門限8時とか、
父が帰ったらテレビは父の希望(NHKのみ)とか
父が帰るまで食事はしてはいけない(22時頃帰ってくるのに先に食べてたらめちゃくちゃ怒鳴りつけてくる)とか
休みの日は家の仕事の手伝いとか
急に仕事をいいつけられたら、
学校も遊びも何を置いてもそれをしないといけないとか
あって、自由に予定を決められなかったり。
あと父母のケンカも相変わらず耐えないし、
父が何をキッカケに怒鳴り始めるか分からないので
(怒鳴り始めると何時間も正座して聞かないといけない)
家の中でもびくびくしていたし、
遊びの予定とか入れてもキャンセルしないといけないかも
と思うと、気軽に入れられなくて。
本当は早く家を出たいんだけど、
父がそれを許すはずもなく、
私が家を出る=母や妹たちが代わりに怒鳴られて迷惑をかける
大学行けない=家の仕事を手伝わされる
だろうから、仕方なく
大学までは家に居ないといけないんだろうな、
実家を出ることは許してもらえないので、
実家から通える大学しか行けないんだろうな…
母は母で、「女は手に職がないと、えらい目にあう」
だから、「必死こいていい大学に行きなさい!」という感じで。
確かにその時の母の状況を見ると、
手に職がないと「えらい目にあう」ことは分かりすぎるほどにわかる。
でも本当は、母も「いい大学」に行っていて、
「手に職」も祖父母から受け継いだ「財産」もあったから
家を出ようと思えば、いつでも出られたはずなんです。
それでも、家を出ずにそんな目に合ってるのは、
私たちのせいで(こどもたちのために)と思っていたからで。
そう言われると、すごく申し訳ないと思ってしまって、
母のいう通り、とにかく今は
「できる限りいい大学に行くしかない」と思ってました。
諦めはよかった
「ものぐさ精神分析」を読んで、
心理学という学問を知った私は、
本当は手に職をつけるために
「商学部」とかに行った方がいいんだろうけど
と思いつつ、
社会人になったら、
心理学なんて(必要じゃない学問を)勉強できない
いましか勉強できない
と思って、自宅から通える私立大学で
心理学が勉強できる学部を探しました。
大阪から通える国公立を狙うには
浪人しないと無理な学力だったし、
気付いたときが遅すぎたので、
センター試験も受けないと決めて、
国語と歴史は本をよく読んでたからか
もともと得意だったので、
とにかく英語1本に絞って勉強することに。
本当はダメなんだけど、3年の後半は
数学の授業とかあっても、サボっていかなかったり
遅刻ばっかりしてて。
それが10回続いたとか何とかで、
母へお叱りの電話が行くことに。
そこではじめてサボってることを知った母は、
めちゃくちゃ怒った…訳でもなく、
「高校ももうすぐ終わりなんだから、
行けるうちに行っておきなさい」
みたいな感じでした。
今、選択できる範囲で最良の判断をする
諦めが良かったから、
センター用の勉強(理系科目)もせずに
英語だけに集中して、
複数日程(AとかSとか)受けた方が合格率がいい
という情報も予備校から聞いて、
他の学部も別日程で受けることにしたりして、
ずっとD判定だった大学から合格通知もらえました。
思い返してみると、
大阪から通える距離の大学のみ
浪人は絶対にできない(父が大学行かずに自営手伝えと言ってたので)
大学でしか勉強できない(心理学)をする
母にも納得してもらえる偏差値の大学に行く
という制約があったおかげで、
国公立を目指す
関西以外の大学に行く
という選択肢が早々になくなって(諦められて)
国公立いかないなら、
苦手な数学があるセンター受けなくていいや
となり、関西で心理学が勉強できる大学も
当時は限られていたので
自然と条件が絞られて、
やるべきことに集中できたし、
どうせ手に職つけるために仕事はするんだから、
「大学の4年くらいは好きな勉強をしよう」と。
今思えば、その当時にできる最良の選択をしたな
と思いますし、この時成功体験から
今、選択できる範囲で最良の判断をする
ということが
今にも続く「自分のポリシー」になっている気がします。
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