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目的をはみ出たもの

贅沢は何らかの目的のためになされるのではありません。

目的への抵抗

『自分へのご褒美』ってよく聞くんですが
そんなの自分には贅沢すぎる…とか

「やりたいことを仕事にする」
「自分が本当にやりたい事」
とか自分だけ贅沢すぎない?

何が贅沢で、何が贅沢じゃないのか?
贅沢はどこまでなら、して良くて
どこからは、してはいけないんだろう?
と思ったり。

今回、國分功一郎さんの「目的への抵抗」を読んで、

  • 贅沢は、目的をはみ出たもの

  • 豊かさを感じて人間らしく生きるためのもの

  • 贅沢を阻むものは?

  • 目的を超えるためにどうすればいいのか?

について書かれてたので、まとめてみます。

自分を変えられないように

マハトマ・ガンジーの言葉
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、
それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは、
世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである」

目的への抵抗

目的への抵抗は2部制になっていて、
贅沢、目的、手段についてのお話は、
後半部分になります。

このマハトマ・ガンジーのことばは
前半部分に出てくるのですが、

『他者からの評価のためにではなく、
自分のために行動する』という
「生きのびるための事務」(坂口恭平)へ
つながる言葉だなーと思いました。

贅沢は必要ない?

確かに贅沢は生存の観点から見れば無駄です。
生存に必要なものだけがある生活とは、どんな生活でしょうか。
それは何らかのアクシデントがあれば
容易に崩れ去ってしまうようなギリギリの生活
ギリギリの生活の中で人間は充実感を抱くことができるでしょうか。

目的への抵抗

豪華な食事や良い服がなくても人間は生きていける。
でも、経済的な豊かさが達成されると
『ここからどこへ向かうべきなのか?』
という悩みが出てきてしまう。

毎日カロリーメイトでいいよね?

「資本の側は、「そんな贅沢しなくていいじゃないか」とささやいてきます。「毎日カロリーメイトだけ食べてたって、別に十分生きていけるよ 」というささやきは、いくらでも聞こえてくるし、確かにそれで生きていけないことはない。/そのとき「それはいやだ」と言えるかどうか。

目的への抵抗

私はカロリーメイト大好きで、
「自分ひとりだったら、
毎日カロリーメイトでもいいなー」
とか思ってしまうのですが、

人から
「あなた、毎日カロリーメイトでいいよね?」
って言われたら…嫌かも。

消費社会の論理を徹底するため

消費社会は、贅沢に気づき始めた人間には、
「必要や目的を超えて何かを求めるなんておかしいでしょ」
とまるで倫理を諭すかのようにささやいてくる。

目的への抵抗

昨日テレビで万引きGメンの話みたんですが、
万引きする人は、
「お金がないんじゃなくて、
お金を使いたくない」らしいです。
『使うと無くなって不安』だから。

この『使うと無くなる』感覚が
まさに消費だなと思いました。

モノを買って、自分が満たされる
って自分が主体だけど、

モノを買って、お金が無くなる
って、お金が主体になってて
お金のために自分を削ってる(求めてはいけない)みたいな…

消費社会にとって、
贅沢は人を満足させてしまう、
満足されてしまっては、
消費が継続できないから困る
のと、

人間は一つの事柄に没入しきっており、
まさにそれゆえに完全には支配し得ない状態

目的への抵抗

贅沢の瞬間は、
「他者からは完全に支配できない状態になる」
のも不都合という感じでしょうか。

贅沢がもったいないからではなく、
全てを目的と手段の中に閉じ込める消費社会の論理を徹底するため。
消費行動は全て何らかの目的のために行われなければならない。

目的への抵抗

贅沢(目的のための行為以外)は認めない

あらゆることを何かのために行い、
何かのためでない行為を認めない。
あらゆる行為はその目的と一致していて、
そこからずれることがあってはならない。

目的への抵抗

チルタイムって、ありますよね。
うちの旦那さんがたまに
その名前の缶ジュース飲んでるんですが、

「ん?まったりしたいアピール?」
って聞いたら、
「コーラのアプリ(コークオン)で無料クーポンもらったから
いちばん高いのコレだった」
って言って飲んでて。おもしろいなーと思うんですが、

『まったりするためのまったり時間』

って、誰に対してのアピールなん?と思ってしまうから
私は「チルするための商品」とか買って飲めないなー
誰に見られてなくても無理だなーと思いました。

手段の正当化

目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、
それが目的の定義に他ならない

目的への抵抗

ハンナ・アレントのことばですが、
目的の目的は「手段を正当化」するためのもの
って言い切っててすごいなーと思いました。

たとえば、私がブログで月100万円稼ぐぞ!
っていう目的を立てた時、

それは、月100万円を稼ぐことではなく
「ブログで稼ぐ」という手段を正当化
するための発言である。

ってことですよね?
もうひとつ、こちらも例えが偏り過ぎるけど、

ハリソン山中(地面師たち)が
「もっと大きなヤマを狙いませんか?
死人がゴロゴロ出るようなヤマです。」

と言った時、
大きなヤマを狙うことが目的だけれど、
それは「死人をゴロゴロ…」という
手段を正当化するための発言であると。

ちょっと例えが両方偏ってて、
共感できない人の方が多いかもですが。
私はめちゃくちゃ共感するとともに、

自分が「目的」について
うっかり発言することで

「あなたが何を正当化したいと思っているのか、
私には透けて見えてますよ…」

という犯人の脅しみたいな感じに刺さりました。

あと、ちょうど「全裸監督」見たんで、
古谷組(國村隼)の目的と手段とか、
村西監督側の目的と手段とか…
人の目的と手段を客観的に見るのに使えそうです。

つまり暴力こそは
手段ー目的という連関が最も鋭く問われるトピック

目的への抵抗

「目的をはみ出る」行為

目的によって開始されつつも目的を超えられる行為、
手段と目的の連環を逃れる活動、
それは一言で言うと「遊び」ではないでしょうか

目的への抵抗

「何のために生きてるんだろう…」
とか子どもは言わないですよね。当たり前だけど。

最近子どもには「スキマ時間」ってないよなー
というのも当たり前だけど思ったり。
あ、あと子どもには「家事」もないですよね。
話変わってしまいましたが、

子どものまわりにあるのは、目的ではなくて
その瞬間を楽しむスイッチ」だけ
ってみてて思います。

昨日2人連れて公園行ったんですが、
公園で拾った棒をマイクラに見立てて
それを「つるはし」にしたり、

乗り物の遊具に乗ったら、時間を超えられるとか…

乗り物の遊具(目的)によって開始されつつも、
乗り物という目的をあっさり超えていくというか…

それが、目的を超えていく(=遊び)ってことだよなーと。

活動が目的によって駆動されるとしても、
その目的を超えれることを経験できるところに
人間の自由がある。

目的への抵抗

昨日数十年ぶりに
「ゆらゆら帝国」の「ミーのカー」聞いたんですが、
歌とか言葉とか伝えるとか、
そういうの軽く超えてくるなーと。

人と話してたり、本読んだり、ドラマ見ても
この人は何が言いたいんだろう?とか

すぐに勘繰ってしまったりするんですが
そういう勘繰りを軽く超えてくるものに惹かれる
ってそこに贅沢を感じるからなのかもですね。

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