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「会」という字の意味を考える

久しぶりの普通のブログというか、noteです。独り言です。

私はつくづく文章を書くのが好きだなぁ、というか、
書かないとやってられないみたいなところがあって
それはなんというか自分の気持ちや思いの吐き出しところが昔からなかったこと、自分の気持ちを吐き出すところはいつもノートや日記だったところから変わってないなぁなんて思います。

私はエッセイストではないけれど、自分の思ったことや感じたこと、そういうことを文字にすることも、発信することも、趣味の一環です。

昨年、脚本家になってから、本当に忙しくて、
今までも人生で忙しいことってたくさんあったのに、その中でもすごく忙しくて、大好きだったnoteを書くことも止まってしまっていたなぁ、なんてふと思っております。

やっぱりたまには書きたいし、書こうとと思っています。

最近はというと、基本はずっと家にいるんですけど、
幼馴染みがたまたま近くに引っ越して来まして。

20数年ぶりにご近所さん&幼馴染みと家が近いみたいな状況になって、めちゃくちゃいいものだなぁって思いました。

なんかね、
自分がこうね、気持ちが沈んだ時に「じゃあ会おう!」ってなれる物理的な距離感ってすごくいいと思うんです。

こないだもかなり気持ちが沈んでいるときに
「大丈夫?会おう!」って言ってくれて、すぐに会ってくれて。

今の世の中には、今のご時世にはそういうのが足りないというか、
そういう温かみを感じる機会が減ってしまってるから、
そういう積み重ねがいろんな悲しい事件に繋がっている気がしてならない。

「会う」っていうことは、文字通り「人」に何かを「云う」ということ。
つまり誰かに何かを伝えるということ。
伝える人が居るっていう嬉しさや安心、温かみ、そういうのを感じる瞬間が減ってしまうって、そりゃあ心の健康もなかなか保ちにくくなるななんて思ったり。

それこそずっと忙しくて、基本的に家で仕事ばかりしている自分も
たまには外に出て、誰かと会う。
気分転換もそうだけど、そういうところから世の中への疑問も温かみも感じるし、人と人の繋がりは自分を元気に導く活力でもあるななんて思ったから、たまにはお休みの日に誰かに会うっていう、そういう機会もちゃんと大切にしていきたいってすごく思いました。

悲しい時は悲しい。
辛い時は辛い。
楽しい時は楽しいって言えないって、生きている実感が持てないって気がしてならない。
だから、何かを「云える」「人」がいること、「会」える人がいるのはすごく人生の支えになる。

このご時世の我慢とか、制限って、何なんだろう…?ってふと思う。

誰かが誰かの思いやりで会うこと、
誰かが誰かを大切に思って会うことは、
そんなに人から非難されなきゃいけないことなんだろうか。

例えば芸能人の誰かの誕生日会。

そういうことがすぐに報道に出てしまう世の中だけど、本当にそれでいいのだろうか?
悪なのだろうか?あれは謝らなければいけない行為なのだろうか?
というのが私のコロナ渦であった疑問だった。

大切で祝いたい程の人がいるって、それほど思いやれる人がいるって人としてすごく素敵なことなんじゃないんだろうか。
心配だからこそ、駆け付けた人、出向いた人がいるんじゃないんだろうか。
それを“こんなご時世なのに”の一言で片づけるのはどうも違う気がしてならない。

“こんなご時世”と理解していて、“こんなご時世だから”と思っている人もきっといるはずなのに。

それこそこのご時世で自分が落ち込んでいた時に
すぐに「会おう」と言ってくれた幼馴染みに私はすごく感謝している。
会ってくれるだけで、あんなにも救われるもんなんだね、人って。めちゃくちゃ感慨深かったよ。

世の中には本当にいろんなことがあって、
ひとつひとつの出来事に対して想像力が欠けると人は人を傷付ける。
だから、私は言葉にして、文字にして、作品にして、発信していかなきゃならないって、していきたいってすごく思っているよ。

昔よりもなんだか自分の気持ちを言語化する力が上がったから、
ブログといえど永遠に書けるんだけども
たぶん長くなりすぎてしまうので、最近はこんな感じです、深月あかり。

私もまだまだなので、とにかく作品を書いて作っていきたいなってそう思っています。魂込めて。






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