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「冬の森」第10話
第10話 辞書
心地よい暖かさの中で目が覚めた。
目が覚めてもほんの少しの間五年前の雪山を上空から眺めている様な錯覚に浮かれていた。
「あ、わたし眠っちゃってたね。」
と、口に手を当てながら言うと、賀久は
「ほんの十五分くらいだよ。夜仕事してたんだから寝ちゃうよ。」
と、羽根ふとんをひっぱってさらにわたしを包んだ。
「妖精になってノルウェーの星空を飛び回る夢見ちゃったよ。」
と、子どもみたいにパタパタ手を動かしてみせた。
わたしの頬をぎゅっとつまんだりして遊んでいた賀久が急に真顔になって、
「里奈さんてさぁ、ここで仕事はしてるじゃん。
ひとりでも暮らせるの?ああこんないいマンションじゃなくて普通の暮らしってことだよ。変な訊き方だよね。ちょっと気になったから、ごめん。」
と、最後の方は早口になって目を反らした。
「ありがとう。わたしのこと、心配してくれているんだよね。
仕事はね、前に働いてた会社からそのまま請け負っててずっと続いてるのはとても嬉しいことよ。でも都会でひとりで暮らすのは今の仕事量では無理かなぁ。ここに住む前は学生の頃から姉と一緒に住んでたの。」
と、まるできいて欲しいことだったかの様に一気に話した。
「俺さあ、しばらく海外に出ようと思うんだ。里奈さんは本当にこのままここにいるの?俺と一緒に北欧のどこかの国に行こうよ。
冬がもっと長くて代々木公園より大きな森がたくさんあるよ。」
と、夢物語を大真面目な顔で話した。
夜が深まって賀久が帰ると急激に寒さを感じてお風呂に熱めのお湯を張った。
鏡を覗いて苦笑した。わたしの右胸の下には小さなほくろがふたつ並んでいる。それを目に見立てて笑った口がマジックペンで描かれていた。
ハートとBe with me.の文字と。
いろんな想いの説明がうまく付かなくて自分なりに心の整理をしようと思う時、辞書を手に取る。
辞書には無限の真実と知恵が詰まっている。理解と表現に魔法がかかる。
【恋】特定の相手に深い愛情を抱き、その存在が身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感、充実感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れて不安と焦燥に駆られる心理状態。
【愛】個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重して行きたいと願う、人間本来の暖かな心情。
悲しいことだけど賀久はもうわたしに恋していない。
辞書にもそう書いてある。
賀久は暖かい。わたしは、年下の恋人にずっと甘えていた。