あきらめる
お彼岸の庭に今年も咲き誇る彼岸花を
摘んでいる時、ふと
「花言葉なんだろう?」
と思って調べてみたら、
「諦める」と書いてあった。
✴︎
諦めるというと断念する、という意味がよぎるけど、本来の語源は
「明らめる」=「明らかにする」
という言葉が変化していったものだ。
明らめる、明らめる
なにかステキなおまじないみたいだな。
中秋の名月を見ながら、明らめると呟いたら、
子宮の真ん中辺りから
突き上げるような声が響いて
「ど真ん中で生きなさい」と
メッセージがやってきた。
家族の想い、
パートナーの想い、
友人の想い、
道ゆく人の想い、
遠く離れた誰かの想い、
世間の想い、
etc...
その中に自分の本音はない。
自分の本音はたった一つ、
自分の中にしかない。
色々な想いや考えや意見の渦の中にある
自分の声をいつも研ぎ澄まして
明らめなさい。
世の中や周りがガラッと変わることがあっても、
自分の本音を曇らせないように。
そして、自分の本音が今日と明日で
全然違っても、
今ここの瞬間にあるど真ん中の本音に耳をすませない。
ということだった。
✴︎
次の日、起きたらなんとなく頭の中がゴチャっとまとまらなくて、
たまたま通りがかった旦那さんと
何気ない会話をしていたら、
「ちょっと分からない。もっと本音で話して!」
って言われて、
あ、こっちからもさっそくキタ!!!と心の中で失笑w
ど真ん中で生きることを
もう少し深めて行こうと、
ヨニケアをしていたら、
ボロボロでてくる。
カッコ悪い自分、
自信なくて、
寂しくて、
臆病で、
何かより優位に立ちたかったり、
羨ましいとか、
足りないんだとか
感情のカケラが溢れ出した。
闇の部分が明らめられて、
もうもう苦しくて息できないくらい溢れた。
今まで何度も味わって、
クリアにしてきたと思ったけど、、、
結構こびりついてたし、見て見ぬふりしてたんじゃんかと気づいてしまった!!
だから、
その一つ一つがあったことを
ただただ受け入れることにしてみた。
それも私。全部私。
私が生み出したのに、
私じゃないって無視して、ごめんね。
愛しいね。
ありがとうね。
ボロボロ溢れる涙と共に
全部、全部
抱きしめた。
子宮がポカポカあたたかくなってきてじんわりした。
私のヨニはその全てを見ていて、
それでも大きな愛で包んでくれている。
ネガティヴ=悪
ポジティブ=善
という単純な方程式ではなく、
どれもが必要なプロセスで、
あらゆるものを味わい尽くしたその先に
あるものは、
愛でしかなかった。
どんなできごとも
どんな感情も
突き詰めて
たどり着くところは、
愛でしかないのかもしれない。
久しぶりに大きな殻が
メキメキと音を立てて
割れていくような、脱皮を味わった秋分の日。
✴︎
あきらめるの「諦」という漢字は
仏教用語では真理、道理という意味があるんだそう。
真理を明らかにする。
般若心経の一番最後にはこうある。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい
ぼじそわか はんにゃしんぎょう
これは、サンスクリット語の音の当て字なので漢字には意味がないらしいのですが、数ある漢字の中で、
「諦」はラップの韻を踏むような感じで、
4回もでてくる。
その意味は、
「皆で行こう、皆で行こう‶仏の国〟に」
「皆で行こう、皆で行こう‶神の国〟に」
「皆で行こう、‶極楽浄土〟」だ。
明らめたその先に、辿りつく場所なのかもしれない。
✴︎
彼岸花は曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれていて、これも般若心経と同じサンスクリット語で
意味は「天界の花」。
天から花がひとひら降ってくるという吉兆からきていると言い伝えられています。
もしかしたら、彼岸花は明らめたその先にある極楽浄土からの使いなのかもしれない。
今、野山では満開を迎えています𓆸