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日々を、刻む。

緩和ケア病棟で息を引き取った母。子宮頸がんだった。その病棟の看護師長さんからお話ししたいことがあるということだったので、母の葬儀の翌日にぼくは病院を訪ねた。高校を出てすぐに都会へ向かったぼくには、その病院はとても懐かしい場所にある。病院の目の前の橋を渡れば、すぐそこには三年間通った中学校があった。この病院はできて間もない。以前ここはボウリング場だった。母はボウリングが大好きだった。アマチュアの全国大会で上位に入賞したこともあった。父はぼくが五歳の時に肺炎で他界した。母子家庭だった。母によく、ここにあったボウリング場に連れて来られた。病院の周りの景色は、ぼくにとっては思い出だらけだった。

病院に入る。緩和ケア病棟の談話室に通された。師長さんと若い男性医師が来た。円卓の椅子に三人が座った。ぼくは母が大変お世話になったと礼を言った。
「あの、お話というのは?」とぼくは尋ねた。
師長さんは話し始めた。「わたし、すごく感謝しているんです」
「母に」
「はい。それで、この気持ちをどうしても、ご家族の方に伝えておきたいと思いまして……」
「それは、どうも」
「いえ……」 
「それで、それは、どのような」
「あっ、はい。それというのはですね、お母様、わたしのこと、覚えてて下さったんです」
「以前に、母と何か」
「ええ……いえ、わたしは単なるお客でした。お母様、昔食堂で働かれておられましたよね」
「ああ、そうですね……でも、ずいぶん昔ですね」
「そうなんです、ずいぶん昔なんです」
「それを、覚えてた」
「はい。驚いたことに、わたしに会った瞬間に、お母様はわたしのことを思い出されたみたいで」
「へえ~」
若い医師は相槌を打ちながら聞いていた。
「わたしのこと、目で、わかったと」
「目で」
「ええ。その頃のわたしは……今は、こんなですけど、その頃はまだ若く、そう、まだナースになりたてでした」
「いや、今もお若いですけど」
「あら、ありがとうございます」
「いえ、ほんとに」
「まあ……ええと、あの、それでその、目でわかったとおっしゃられたあとに、お母様、あの時と同じ目をしてるからと、そうおっしゃられたんです」
「へえ~」
「それがわたしにとっては、何て言いますか……とてもうれしかったんです」
「目のことが」
「そうですそうです。やはりその、毎日のように生死に関わっていますから、どうしてもその……」
「……大変、なんでしょうね」
「まあ……」
「母がなぜ、覚えていたのかわかります」
師長さんも、若い医師も、えっ? となってぼくを見た。
「あのわたし、自分でも昔とかなり顔が変わったと思うんです。親戚からも、まあ逞しくなったって……目だけはそんなに変わってなかったのかもしれませんが、それでも、その……」
「たぶんですけど、母のことですからこういうことだったんだと思います……目の、輝きは変わってなかったから、すぐにわかったと」
師長さんは大きく息を吸い込んだ。若い医師は大きくうなずいた。
ぼくは続けた。「母は本当に昔のことをよく覚えてました。まるで自分の人生の日々の出来事を、忘れないようにしているみたいに。だから、誰よりも希望に輝いていた師長さんの目のことを覚えていても、不思議ではありません」
師長さんはハンカチを取り出して涙を拭った。若い医師は師長の背中をそっとポンポンと叩いた。師長さんはうなずくばかりだった。

ぼくは再度礼を言って病院を出た。目の前の橋を渡って中学校に行ってみたくなった。この橋を渡るのは中学校を卒業して以来のことだった。通りから、後輩たちが授業を受けている今もあの頃と変わらないその校舎を、ぼくはしばらくのあいだ眺めていた。


(終わり)

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