あまく温かな香り
彼女と出逢ったのは、ぼくが働いている動物園でだった。ぼくは飼育員で、スカンクも担当していた。春先から彼女をたびたび見かけるようになった。彼女は飽きもせず、金網越しにスカンクをじっと見つめていた。スカンクもスカンクで、まるで運命の相手に出逢ったかのように彼女を見つめ返していた。ちなみにそのスカンクは雄だった。スカンクは、強烈な臭いのおならを放つと思われている。しかし、実際のところは、あれは肛門の両側にある肛門線からスプレーのように放たれる分泌液であって、おならではない。あくまで一般的だが、ビーバーの分泌液はバニラの香りがし、あのムスクと呼ばれるジャコウジカの分泌液を加工したものは、あまく温かな香りがする。
そうした或る日のこと、彼女はぼくに話しかけてきた。その、ほんの少し前に奇妙な出来事があった。彼女がいるスカンクのコーナーに数人の子供たちが集まってきていたのだが、突如一斉に臭いと騒ぎだしてそこから退散していったのだ。きっとその子供たちはスカンクのおならだと思ったことだろう。しかし、それはありえなかった。スカンクには手術が施されていたので臭うはずがなかったからだ。その様子を遠くから見ていたぼくは気になって、平然としている彼女のそばまで近づいていった。ところが、彼女のすぐそばまでいってみてもぼくにはなにひとつ臭わなかった。ハテナと首を傾げたあとに視線を投げかけたぼくに、彼女はやわらかな微笑みをひとつ浮かべてよこした。遠くからでも彼女の美しさは一目瞭然だったけれど、間近であらためて見る彼女の美しさといったら一瞬息がとまるほどだった。その肌は透きとおるほどに白く、そのストレートの黒髪はオーロラのような艶を帯びていた。そのときだった。ぼくは微かな香りを、感じた。その香りのせいか、ムスクの香りがホルモンのバランスを整わせ肌を美しくするという話を、ぼくは彼女に見とれながらふと思い出していた。
「彼の担当の方ですか?」
と彼女は尋ねた。
「ええ、そうです」
とぼくは答えた。
金網に取り付けられたボードには性別や好物などが書かれてある。
「アレ、嗅いだことありますか?」
と彼女。
「ああ、ありますよ」
とぼく。
「それは臭うんですね」
と言って、彼女は少し笑った。
「はい?」
と、ぼくも笑って聞き返した。
「いえ」
と彼女は言うと、ニッコリと笑って去っていった。
それからぼくと彼女はスカンクの前でひとことふたこと会話を交わすようになった。夏がそこに来ていて、勇気をだしてデイトに誘ってみた。彼女は快諾してくれた。
彼女のまわりに起こる異変に気づいたのは、ファーストデイトでだった。ぼくは朝早くクルマで彼女が住む地区へと向かった。指定されたのはドラッグストアの駐車場だった。車種と色を伝えてあったので、駐車場に止めるや否や彼女はサイドガラスを軽くノックした。初夏らしい涼しげなフェミニンな格好だった。ドアロックを外し、彼女を助手席へと誘った。
「なにか食べます?」
とぼくは尋ねた。
「ううん」
と彼女は首を横にふりながら言った。
「じゃ、このまま行きます?」
とぼく。
「ええ」
と彼女。
ぼくはクルマを発進させ、駐車場をでた。
キラキラした海が、フロントガラスから彼女の方のサイドガラスへと移った。彼女はぼくに合わせて休みを取ってくれた。目的地はネコランドというテーマパーク。彼女は猫が大好だということだった。けれど住んでるマンションでは飼えないらしく、ぼくが行きたいところはどこかあるかなと尋ねたら、できたら最近できたネコランドがいいなと即答したので、ならそこにでという風に決まった次第だった。途中、西海岸風のカフェがあったので、トイレ休憩がてらに立ち寄った。ぼくたちは窓際の席に座った。平日の午前中の店内は、若いカップルがちらほらといる程度だった。ぼくは珈琲をたのみ、彼女はミルクティーをたのんだ。しばらくして注文の飲み物がふたつ同時に運ばれてきた。彼女とは、沈黙は苦ではなかった。無理になにかを話す必要もなかった。彼女は無理して話さなくてもいいといった雰囲気でいてくれていたから。なのでぼくは彼女といると自分でも信じられないくらいに心がふわふわとしてきてとても居心地がよかった。しばらくして、エプロンをした白髪の男性がぼくたちの席にやってきた。彼は店長だと名乗った。どうやら他の席のお客から苦情を受けたみたいだった。彼は丁寧に伝えてくれたが、要はこのあたりからなにか臭う、というものだった。彼は確かに苦い顔を浮かべたまましゃべっていた。ぼくは自分の服にひょっとしたら動物の臭いが移っているのかと思い、急いで何ヵ所か嗅いでみた。でもどこも臭いはしなかった。むしろほのかに洗剤の香りがしたほどだった。次にぼくは、おろしたてのトレッキングシューズを片方ずつ脱いで嗅いでみた。しかしそれも悪臭というほどのものでもなかった。そうこうしてるうちに彼女がでましょうよと言ったので、ぼくたちは飲みかけの珈琲とミルクティーをそのままにして、会計を済ませ店をでた。
そんなこんなでネコランドに到着した。体育館のような室内では猫たちとふれあえるようになっていた。彼女はさっそくスニーカーを脱いで、カーペットを敷き詰めたゾーンに上がった。ぼくはさっきのこともあったので、身体に動物の臭いが染みついてるのかもと思い、上がらずにそばで見ていた。彼女がしゃがんだとたん、猫たちが一斉に彼女に寄ってきた。それはそれは尋常ではない寄ってきかただった。まわりにいたお客さんも感嘆の声をあげてその光景を微笑ましく見ていた。ぼくは緊張のせいかまたトイレに行きたくなったので、そっとその場を離れた。用を足して彼女のもとに戻ってみると、なんだかあたりの様子がおかしくなっていた。無邪気に猫たちと遊ぶ彼女を遠巻きにして、10人くらいのお客さんと3人の制服を着たスタッフがひとかたまりになり彼女のほうを見ていたからだった。ぼくはそのかたまりに近づき、耳を澄ました。どうやらあの辺りから異臭がするということらしかった。あるお客さんの問いかけに、スタッフらは通常の猫の臭いではないと釈明していた。ぼくはまた自分のせいだと思いそのかたまりのそばを少しのあいだ離れずにいたがこれといった変化はみられなかった。ぼくはそのかたまりから離れて彼女のもとに近寄っていった。ぼくにはそこでも、なにも臭わなかった。ぼくはわざと大きな声で、ごめん、どうもお腹の調子がおかしくって、と彼女に言った。彼女はぼくの後方のかたまりの人々の様子に気づいてすぐさま状況を察したようだった。彼女は立ち上がると、猫たちにバイバイして、ふりむくとぼくにちょこんと舌をだした……
帰りのドライブ中に夕方になった。クルマのなかで彼女はずっと黙ったままだった。車内にはFMが小さく流れていた。彼女のリクエストだった。彼女にはこの時間、お気に入りの番組があるようだったので、それを。ラテンミュージック中心の番組。その番組が終わりかけた頃、彼女はようやく口を開いてくれた。
「気づいたかしら?」
と彼女は言った。
「ん? なにを?」
とぼく。
「わたしのまわりに起こる異変」
「ああ」
「どういうことだと思う?」
「う~ん、見当もつかない」
「うそ」
「ほんと」
「うそよ」
「ほんとほんと」
「ほんとに優しいのね」
「そんなことないよ」
「ううん。今日一緒にいてよくわかった。ごめんさい。ちょっとあなたを試したところがあったの」
「試験みたいに?」
「まあそうね」
「合格かな?」
「偉そうに言ってごめんさない」
「そうするにはそうする理由があったんでしょ?」
「うん」
「よかったら、話してみて」
「そうする」
そうして彼女は語り始めた。かいつまんで言うとこういうことだった……
なにしろ彼女は子供の頃から今もなお、大人の男性たちからやたらにお尻を触られていた。大人の男性との肉体的チカラの差の前では、幼い頃の彼女はただただじっと耐えるしかなかった。そのたびに彼女は恐怖を感じ、震え、人知れず泣いた。母親に相談した。そんなときは叫びなさいと言われた。でも彼女には報復が怖くて叫べなかった。高校生だったある日、彼女はエレベーターの中でまた大人の男性にお尻を触られ、そして恐怖のあまりおならをもらした。するとそのとたんに男性は吐き気を催し、さらには気を失ったそうだ。彼女は自覚した。彼女のそれは男たちを一瞬にして撃退させる効果があることを。その日以来おならは彼女を守る武器をとなった。と同時に、不思議なことに彼女は自在におならができるようになった。思えばいつもどこか我慢しているような感覚だったから、思いっきりできる快感で恐怖を相殺した。しかしその一方で自分はなにかの病気かもしれないと思い込むようになった。母親にたのんで病院で診てもらった。腸内も便もまったく異常がなかった。ただひとつ変わった点があるとすれば、それは彼女の肛門の両側に小さな突起物があることくらいだった。診断は、恐らくそれは肛門のシワの一部が変質したものだから心配ないというものだった。そう言われても泣きそうな顔をしていた彼女に向かってその女性医師はこんな話をした。例えばスカンクのおならを臭いと感じる人は大半だけれど、なかにはまったくそれを悪臭だと感じない人もいる。もしかしたらあなたのそれは運命の人にとってはムスクであり、フェロモンとなりうるのかもしれないと。先生のそのロマンチックな話は彼女の心を大いに癒し、救ったのだった……
ここまで語り終えると、彼女はまた黙り込んだ。ぼくは彼女が話すあいだウンウンと相槌を打つだけで、内容が内容だっただけに信号で止まっても彼女のほうを見ることはなかった。
朝、待ち合わせした近くの公園の道路脇にぼくはクルマを停めた。
「セカンドデイトはいつにする?」
とぼくは言った。
自分のマンションに帰って、ぼくは風呂あがりにベランダで涼みながら彼女のことを考えた。デート中、ぼくは何度も勃起していた。彼女の香りが、あまりにあまく温かで、かつ官能的なせいで。実を言うと、ぼくの嗅覚は人とは違う。ぼくにはスカンクのそれは薔薇の香りに思えるのだ。彼女はぼくがそう書いたブログを読んで、ぼくに興味を持ったのかもしれない……
その後、彼女と何回かデイトした。どれもファーストデイトの時のような異臭騒ぎのない楽しいデイトだった。いろいろと話した。彼女は今、環境調査会社に勤務していた。春にこの街の支社に転勤になったそうだが、それはたまたまなのか、それとも希望だったのかは聞かなかった。彼女はこんな話もした。いずれ世界はゴミの捨て場を失い、不法投棄が横行し、そこからはガスが溜まり悪臭が漂っていく。資源の枯渇に水質・地質汚染が加わって、同じ暮らしができなくなった人々の不満は爆発し、世の中は一気にきな臭くなる。きっとわたしのお尻へのタッチは、わたしのお尻にそうさせるなにかがあって、もしかしたらわたしが生まれながらに持つ香りかもしれないけれど、それは消費社会における競争による傷つけ合いで傷つき壊れてしまった彼らの証しなんだと。ぼくはそれを聞いて思った。彼女から放たれるものは、タッチする男たちをある意味踏み止まらせているのかもしれないなって。
夏の終わりの午後、ドライブの帰り道の車内で。
「わたしたちはアダムとイブにならなければならないと思うの」
と彼女は言った。
「新たな世界にとっての」
とぼく。
「そう」
「私にはどうしても、あなたが必要なの」
「それは遺伝子レベルで?」
「ううん。あなたの愛情なくしては、という意味よ」
「それなら心配いらない」
「よかった。悪臭が蔓延した世界で生きていける子供たちを沢山つくらなきゃいけないわ。たぶんもうグローバル化した社会システムは、行くところまで行かないかぎり変質しようがないと思うの」
「ねえ何人つくるつもり?」
「できるだけ。がんばりましょう」
「がんばれるかな」
「さっきからずっと勃起してるもの、大丈夫よ」
「やっぱり、さっきだしたんだね」
「わざとじゃないの、ごめんなさい。そういう気分になったら、つい」
「そういう、気分」
「そう、そういう、気分」
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