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煙突の上のラプンツェル

 わたしはポストマン。この春、新たにこの地域の担当になった。表向きはこれから爆発的に人口が増える場所だから若いわたしに割り振られたかたちだ。これから森の向こうの高台にある煙たなびく煙突がある家へと初めて配達しに行く。時刻は夕方近く、雨の予報はなかった。
森の向こうへは森を大きく迂回して行かなければならない。ようやく森を回り込むと緩やかな坂道になった。わたしはバイクのギアをローに落として登って行った。
 武家屋敷のような門を抜ける。母屋は立派な日本家屋で周りには人気のない工場が点在していた。見えていた煙突は煉瓦でできていた。微かに、醤油の香りがした。
 わたしは母屋の玄関近くにバイクを停めた。そこに古いポストがあった。わたしはバイクから降り、リアボックスから手紙を一通取り出した。
 煙突を下の方から見上げていった。わたしは目を疑った。煙がたなびいていたのではなく、女性の髪の毛が靡いていたからだ。煙突のいちばん上で、デニムにパーカー姿の若い女性が梯子につかまって、やわらかな風に長い髪の毛を靡かせていたのだ。
 さながら、煙突の上のラプンツェルだった。
 それにしても危なくはないのだろうか? わたしは彼女を見上げたまま迷った。この一通の手紙をポストに入れるべきか、それとも彼女に直接渡すべきか。当然効率を考えたならポストに入れるべきだ。まだまだ配達しなければならない郵便物が残っている。待ってる人になるべく早く届けたいと思う気持ちはいまだ色褪せてはいない。
 しかし彼女はあまりにも美しかった。声を掛けたい。彼女の声を聞きてみたい。これは彼女と関われる千載一遇のチャンスだと、そう思った。わたしは手紙を手にしたまま煙突の真下へと進んだ。彼女はわたしの存在に気づいてないようだった。いやそれとも単に無視しているのだろうか。怯んでいる時間はない。わたしは思い切って声を掛けた。
「あのう! すいません! 郵便です!」
 ここは南極か、と思うほど、長い沈黙と冷たさがわたしを襲った。
 わたしは諦めなかった。
「手紙で~す!!」
 わたしのそのワードに彼女は反応した。
「えっ?」
 いやそのワードに反応したわけではなかった。これはひょっとして、風の具合で、実際聞こえていなかったのかもしれない。たまたまわたしの声が風に乗って、言葉ではなく、わずかに何か、人の声がしたという程度のもので彼女の耳に届いたのかもしれない。うん、きっとそうなのだろうとわたしは気を取り直し、再度声を一段と大きくして叫んだ。
「手紙ですよ!!!」
「何の?」
 よしいいぞ、今、いい風が吹いている。
 わたしは差出人の名称を見て、伝えた。
「NPO法人『髪の贈り物』さんからですう!」
「ええっ?」
「髪の! 贈りい! 物お! さんから!」
「何で?」
 何で? そんなこと、わたしが知るわけがない。
「さあ!」
「じゃなくてえ」
「はいー?」
「何でえ、わざわざあ、伝えるの~?」
 わたしはぎょっとした。それはそうだ。ポストマンはそんなことはしない。わたしは完全に下心を見透かされてしまったのだ。サアーッと血の気が引いていくのがわかった。手紙を持つ手は震え始めていた。どうすべきか、どう言い返すべきか、わたしは必死で考えた。だけど答えはまったく浮かんではこなかった。ああ、わたしは何て愚かなことをしてしまったのだろう。自分の行動の浅はかさに、今度は冷や汗が流れ始めていた。
「ご、ごめんなさいお邪魔してしまって! あの、ポ、ポストに入れておきますね!」
「ええっ?」
 ちくしょう。我ながら追い込まれた土壇場の答えにしてはよかったのに。風の奴め。彼女の味方か。わたしにはもうその答え以外には一切思い浮かばなかった。もうその答えにすがり、命運を託すしかなかった。
「お邪魔してしまってすいません! あなたがとてもお綺麗だったから! つい! ごめんなさい!」
 馬鹿か。わたしは何を言っているのだろう。わたしはありえないほど一気に顔が熱くなった。ああ、どうか、今のも聞こえてませんように。わたしは神に祈る気持ちだった。
「ありがとう!」
 んにゃろう、風め。
「待って! 今降りるから!」
 彼女はそう言うと、まるで魔法のように、片手でパーカーのフードをかぶって一瞬でその長い髪を仕舞い込んだ。それから彼女は、煙突の古さとは不釣り合いな新しい梯子を危なげなく伝って降りてきた。不思議と何かに護られているように風はぴたりとやんでいた。彼女は最後はぴょんと飛んで、地面に軽やかに着地した。間近で一瞬で見た彼女は、また一段と美しかった。彼女は、ふっと笑った。ああ、よかった。正直に勝るものはないんだと、わたしは胸を撫で下ろした。
「はい」 
 と彼女は手のひらを上にして、両手を差し出した。
「ああ」
 とわたしは慌てて手紙を裏返して見た。本人であることを確認することは忘れない。
「漆原アユミさん、ですか?」
「それは、妹です。わたしは、カズミ」
「では、妹さんに」
 とわたしは伏し目がちに渡した。
「それでは」
 とわたしは言い、一秒でも早く立ち去ろうとした。
「ねえ」
 と彼女が言った。
「はい」
 と、わたしはやはり下心を糾弾されるのだと思い恐る恐る振り返った。
「知ってます? このNPO法人」
「髪の贈り物さんですか?」
 とわたしは彼女の目を見れずに言った。
「そう」
「いえ、勉強不足で、存じ上げないです」
「髪の毛をね、無料で髪の毛のない子供たちにプレゼントしてるの」
「ああ」
「病気でね、髪の毛を剃ってしまったり、失くしてしまったり、そういった子供たちにウィッグをつくって無償であげてるの」
「素晴らしいですね」
「でしょう」
「あなたのその髪も寄付されるんですか?」
「ええ。ヘアドネーションって言うのよ。うちの家系は異常に髪が伸びるのが早いのよ。これは妹が最近寄付したから、そのお礼ね」
「そうだったんですね。素敵なご姉妹で」
 彼女は何が可笑しかったのか、ケラケラと笑った。ああやっぱり、いやらしい男だと思われている、わたしはそう思って、では、と頭を下げた。
「ねえねえ」
 わたしはポストマン。呼び止められて無視することは許されない。
「はい?」
「郵便屋さんは献血したことありますか?」
「献血……いや、ないですね」
「一度も?」
「いやないです」
「何で?」
「何で、でしょう」
「怖いの?」
「怖くはないですよ」
「病気?」
「健康です」
「ペット飼ってる?」
「実家で猫を」
「最近、実家に帰って噛まれた?」
「猫に?」 
「そう」 
「噛まれてませんけど」 
「人間には?」 
「えっ?」
「最近、人間に噛まれた?」
「いや、人生で噛まれたことないですね」 
「なら、やったら」
「献血を?」  
「献血できる基準はまだまだあるけど、見た感じ大丈夫そうだから」
「そうですか」
「うちね、結構郵便届くと思うの」
「ああ」
「だから、がんばって」
 わたしはそれを、クレーム入れられたくなかったら献血しなさいというふうに言われていると思った。


 一週間後、確かに妹さん宛に手紙があった。先日と同じ差出人だった。青空の下、遠くに見える煙突に髪の毛は靡いてはいなかった。
 最近、わたしに対する理不尽なクレームが集中していた。クレームを受けると、たとえこちらに非がなくても徹底的な調べを受ける。まあそういうご時世だから仕方ない。クレームは時間も取られるし精神的にも疲弊する。いずれもわたしの潔白は証明されたが、不自然に集中したことで疑いは完全には消え去ることはなかった。社内で偶然、怪しいという自分の噂を耳にしてしまったのだ。それからは、人がわたしを見る目すべてがわたしを疑っているように見えてしまうようになった。誰かがわたしを陥れようとしていると疑心暗鬼になり、気がつけばわたしはいつしか人の目をまともに直視できない人間になっていた。だから次またクレームを入れられたらと思うと、念には念を入れられずにはいられなかった。
 休みにさっそく献血した。初めての献血だった。献血にも二種類あった。全血献血と成分献血。知らなかったことだ。わたしは時間の掛からない全血献血を希望した。基準はすべてクリアし、わたしは400ミリリットル採血してもらった。カードをもらった。これを彼女に見せればいい。それでひとまず安心する。
 森を大きく迂回して、彼女の家の門をくぐった。バイクをポスト近くに停めた。リアボックスから手紙を一通取り出した。一応、見上げてみる。煙突の上に彼女はいなかった。
 少しここのことを調べてみた。やはりここは醤油工場だった。十年ほど前に閉鎖されていた。森を含め、ここらの土地一帯が彼女の家の土地で(そもそもこの街全体も大昔は森だった)、閉鎖後、森は売却していた。しかし森の宅地開発が始まると、突風による事故が相次いで起き、工事はそれから七年間ずっと中断したままの状態だった。
 わたしがそっとポストに入れようとした瞬間、玄関から、ショートボブのガーリーな装いの若い女性が出てきた。彼女によく似ていて、また違った美しさがあった。間違いなく妹さんのアユミさんだと思った。
「あっ、お姉ちゃんに気がある郵便屋さんだ」
 死にたい。もろばれじゃないか。わたしの顔は奇妙にひきつったまま固まっていた。
「て、手紙です」
「ご苦労様です」
 わたしは目を逸らして手紙を差し出し、妹さんはそれを優しく受け取った。わたしを真顔で見つめているのは、感覚でわかった。
 ここは北極か、と思うほど、長い沈黙と冷たさがわたしを襲った。
「ほんとだ……」
 と長い沈黙の後、妹さんは言った。
「はい?」
「何でもない。で、お姉ちゃんに何か言うことある?」
「いえ、特にはありませんが」
「あっそう。なんだがっかり」
「あ、いや、あります」
「ほい」
「献血、しました」
「えらい!」
「これ、カードです」
 とわたしはポケットからそれを取り出して裏表見せた。
「オッケーで~す」
 わたしは仮初めの安堵感に包まれていた。とりあえず、これでいい。
「お姉ちゃんね」
「はい」
「お姉ちゃん今、ヘアドネーションに協力している美容室で髪切ってもらってるの」
「なるほど。では」
 とわたしは踵を返した。
「ねえ」
 わたしはポストマン。お客様の呼び掛けには100%振り向く。
「はい」
「わたしにはそんな態度って何か寂しくない?」
「あっ、すいません」 
 とりあえず謝るしかない、何でも。
「郵便屋さんって、彼女は?」
「いませんけど」
「結婚は?」
「してません」
「ふ~ん」
 わたしにはもう、クレームだけは懲り懲りだいう思いしかなかった。
「献血、また行こうと思ってるんです」
「話、合いそうね」
 これでたぶん次に献血できるまでの三ヶ月間はクレームはないはずだ。


 ところがこれがきっかけとなってわたしと妹さんは付き合い始め、そして半年後には結婚した。結婚式はハワイで優雅に暮らす漆原一族のもと、カズミさん総指揮のなか行われた。ハワイではお義母さんから、姉妹には弟がひとりいて(わたしの目の仕草が弟さんに似ているとも言った)、森を売却したのと時を同じくして病気になり亡くなってしまったことを涙ながらに話してくれた。特に仲が良かった妻は、病気の弟のために何でも提供した。髪も、血液も、時間も。妻は弟と暮らした家を離れるのをずっと嫌がり、わたしに会うまで半ば引きこもり状態であったということだった。結婚と同時にわたしはポストマンを辞め、妻と、ヘアドネーションや献血へのアピール行動や被災地支援やゴミ拾いや森づくりといったあらゆるボランティアへの参加の価値を社会的に高めるためのNPO法人を立ち上げ、街中にその新居兼事務所を建てた。カズミさんはわたしたちの結婚式のあとすぐさまニューヨークへと発った。女優を目指すらしい。その頃わたしはやたら何かのメッセージのように、妻が煙突の上で“風”に髪を靡かせている夢をみていた。
 新居に移ると同時に、彼女ら姉妹が暮らしていた母屋や、周りにあった工場や煙突など敷地内のすべてが解体された。強く勧めたのはわたしだった。弟さんを天国にいかせてあげようと言うと、妻は一晩じゅう泣きじゃくった翌朝、ソファーで眠れずに仰向けになっているわたしに覆い被さってきて、そうする、と言った。その時、枯れ果てていたはずの妻の涙が、両目から一粒ずつ、わたしの両目に同時に落ちた。その日からわたしは人の目を見て話すことができるようになった。漆原一族には妻みずからが話して、解体の全員の許可を得た。しばらくして始まった宅地開発は、何事もなく、順調に進んでいるようだった。


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