マーメイド・イン・鵠沼海岸
小6の夏。サーマルウィンドが吹く前の、まだ誰もいない波に乗るのにハマりだした。朝起きて、その気になれば10分でファーストターンができる。朝すぐに飛びだしていけるように、スーツなどの下準備は夜にしておいた。浜辺に降りたら、軽くストレッチしながら沖にでるためのサーフビートを見極める。小走りで海に入る。パドリングで海をつかむ。そうすると自分の中の何かとつながっているように思え、日々受ける嫌なことがそこから海へと消えてゆくような気がした。その日。そう、その日はいつもと違っていた。彼方に、信じられないほどに美しくきらめく波があらわれたからだ。それを求め、とりつかれたようにパドリングしていった。だいぶ近づいた時に、ふとふり返った。初めてみる角度の江ノ島がそこにはあった。ふたたび沖の方をみると、きらめく波はもう存在してはいなかった。どこかトキメキに似ていた鼓動は一瞬のうちに恐怖のそれに変わった。夢でもみていたのかと我に返り、急いで岸へと向かった。すでにかなりの体力を消耗していた。なぜそうなるまで疲れを感じなかったのか不思議でならなかった。腕が棒のようになっていて思うように動かない。岸に向かっているのか、それとも沖に流されているのか、江ノ島の角度は変わらないままだった。寒気とともに身体全体が小刻みに震えだした。死ぬかもしれない。生まれて初めてそう思った。海は異様な静けさをたたえていたが、瞬く間に空が色を失くしていき、風がでてきた。ボードがふわりと揺れだした。そしてあっという間にバランスがとれないくらいの不規則な揺れになった。叫んだ。誰か助けてと。だけどそれは声にはなっていなかった。必死でボードにしがみついた。次の瞬間、忍び寄るように来た高い波にのまれボードから投げだされた。とっさにワイプアウト時の動作をとって沈まないようにした。しかしながら波の圧力には意味をなさず一気に海の底へと沈んでいった。心臓がさらに激しく暴れだした。ほんとうに夢ならいいのに、と思った。このまま眠ってしまうばいいんだと。そう思うと脳はかつてみた夢のことを思い出させていた。たいていは大会で負けた夜にみた。今のように浮上するチカラも尽きて海の底に沈んでゆく夢だった……。耐え難い呼吸の苦しみに意識を戻された。その時だった。誰かに手を握られて急速に浮上していった。海面からドバッと顔をだし、悲鳴とともに大きく息を吸った。海上に顔をだしても、景色は滲んだままだった。泣いていたのだ。片手で涙をぬぐった。すると目の前には同じ歳くらいの少女の顔があった。上半身は裸のようにみえた。少女は笑顔だった。それから身体がふっと軽くなった。彼女が抱きあげてくれたからだった。彼女の小さな胸のふくらみをスーツ越しに感じた。お互いに上半身が海面から浮きあがっていた。足に何か生ぬるいものがバチバチと繰り返し当たって水圧がかかっているのを感じながら、意識を失った。意識が戻った時には、砂浜に仰向けになっていた。空は晴れ渡っていた。横を向くと、そこには自分のサーフボードがあった。上半身を起こし、しばらく海をみていた。後ろを通りがかった犬の散歩中の婦人に時間を聞いたら、家をでてからまだ30分も経っていなかった。
大学生になった。夜が明けたばかりの夏の海が純白なひかりを浮かべている。いちばん乗りだ。ぼくは抱えたサーフボードを海に浮かべ、沖に漕ぎだす。キラキラしたひかりをつかむように漕ぐ。サーフィンはそれなりにうまくなった。ジュニア世代ではそれなりに有名な存在だったが、何かが欠けて長いスランプに陥っていた。オリンピック選手など夢のまた夢だが、見据える先にあるのはそれしかなかった。彼方に、いい波が来ていた。サーフボードの向きを変え、波を待つ。近づく波をはかって、漕ぎ始める。スタンドアップ。タイミングはバッチリだ。ボードをフェイスに沿ってすべらせてゆく。大技にトライしてみる。だがひとつひとつの動作の意識が浅く、曖昧で、みごとに失敗する。海中でのワイプアウトの姿勢から一気に浮上する。砕けた波を越えて、向こうに漂うボードまで泳ぐ。それもいい練習になる。ボードに身体をあずけ、ひと休みする。ふと浜辺をみると、ぼくをみている女のコがいた。
サーフボードを抱え彼女の横を通り過ぎようとする。彼女は海をみつめたままでいる。
すれ違う瞬間ぼくの瞳は彼女の顔のななめ前から真横までをみとれるようにみる。数歩、歩いた時に彼女の声がする。
「あの感性じゃ失敗するわよ」
ぼくは足を止めて、ふり向く。
「サーフィンやってるの?」
彼女はふり向かない。
「ううん」
「それでわかるんだ」
ちょっとバカにした言い方をしてみる。彼女は肩をすくめる。ぼくはサーフボードを砂浜の少し盛り上がったところにそっと置き、彼女に向き直る。
「どう感性が悪かったの?」
ぼくはなぜか意地悪くなりたい気分になっている。
「今あなたがしたことよ」
「今?」
彼女がふり向く。陽射しが彼女の長い髪を輝かせる。ぼくは眩しさに目を細める。
「ボード、どこに置いたの?」
「どこにって」
ぼくはふり返り、ボードを確認する。海亀の赤ちゃんがボードの反った先端部分の下からでてくる。そこから海まで無数の小さな足跡が続いていた。
「出遅れて夜まで待ってたのに、勘違いしたのね」
その彼女の声にぼくはふり向き、彼女がふたたび海に向いた瞬間を目にする。
「そっか、そういうこともあるんだ」
「ねえ、海亀が産卵しに来ることくらい知ってるはずよ。波のクセはわかっていても、砂浜のことまでは関心がないようね。自然に対して五感のすべてで察知してないからそうなるのよ」
「うん、確かにそこが欠けてるところだったのかもしれない」
彼女はちょっと笑う。部屋の窓辺によく来る、小鳥のようなリズムで。
「思い当たる節があるのね」
「ある。ぼくはどうしてそれができないのかな?」
ぼくはアドバイスを仰ぐことにする。どうすればそうなれるのか聞きたくて仕方がなくなる。彼女のその、恐らく的確で運命的であろうアドバイスを、待つ。彼女は微笑み、続ける。
「夢だけ燃やして、それ以外の無用なものはその炎で燃やし尽くすくらいに生きてる?」
「いや」
「そこね。そうすると五感が冴え渡って、さまざまなメッセージを自然からキャッチできるようになるわ」
「なるほど」
彼女が髪をなびかせて去ってゆく。風が彼女を追いかけてゆくように向きを変える。彼女は顔にかかった髪を両手で束ねて、後ろで結ぶ。ぼくはハートを射ぬかれて、尻もちをつく。そして、海亀の赤ちゃんを目で追う。ふたたび彼女をみると、そこにはもう彼女はいなかった。
月日は流れ、ぼくは五十歳になった。オリンピックには一度出場し、銀メダルを獲った。そのおかげでここ鵠沼海岸にサーフショップを持て、かけがえのない友人達をおおく得ることができた。それとある企業のイメージキャラクターにもなっている。オファーはたくさんあったが、波のクセもずいぶんと変わってきていたことから環境問題に積極的に取り組んでいるその企業のCMにだけでることに決めた。「ロマンチックな惑星(ほし)に生まれて」がキャッチコピーになっているあれだ。もう20年以上起用してくれている。ぼくはいつもさまざまな美しい海をみつめているだけだが、今年のCMも評判がいい。結婚はしていない。恋人もいたことがない。箴言をくれたあの夏の彼女の顔を今も鮮明に思い出すことができる。今朝も波に乗る。選手としては引退したが、競い合うことを経て辿り着いた境地の中で楽しんでいる。誰よりもはやく絶好の波に乗りたいから、毎日鍛えている。ふたたび彼女に逢ってから、子供の頃のあの出来事は夢なんかじゃなかったんだと、やる気スイッチというやつが入った。それからというもの、ジムプールでビート板でひたすらパドリングの練習をしたりした。それが今も内容を変化させて続いている。見渡す限りまだ誰もいない海にでる瞬間は至福だ。波を待つ。ひとつ、いい波が来ていた。テイクオフ。ターンを繰り返し、ボトムターンでボードにパワーとスピードをくわえ、波のトップから空中に飛びだし、180度回転するエアーリバースを決める。うまくいった。沖からもうひとつ高い波が来た。それにテイクオフし、立ったまま岸に向かう。波にアクションを起こさずにいれば何もないまま終わってしまう。ぼくに来た波にアクションは起こした。金メダルには届かなかったが、自分にできる精一杯のパフォーマンスは残せたと思っている。それが誰かの未来のためになっていれば幸せだ。やがて波が消えて、ボードから降り、ボードを抱えて顔を上げる。と、浜辺にワンピース姿の女性が歩いているのに気づいた。彼女だ。ぼくは逸る気持ちを抑え、海をでる。ボードを砂浜を確かめてから置き、彼女の隣に立つ。
「ひさしぶりだね」
「そうね」
「変わらないな」
彼女は笑う。愛しい、あの小鳥のようなリズムで。
「そうね」
「人魚だから?」
「そうよ」
「ぼくを助けてくれた」
「そう」
涼しそうなワンピースから少しみえる裸足の足をぼくはみる。
「足があるよ」
「そうね」
「あの日もあったよ、足」
「あなたが大学生の時ね」
「うん。服は覚えてないけど、裸足の足は覚えてる」
「あの時はわずかな時間しか陸に上がれなかったの」
「それですぐにいなくなったんだね」
「ええ」
「今は?」
「一年はいられるようになったわ。この日のために今日までかかったのよ」
波が騒がしく音を立てる。彼女は座る。ぼくも隣に座る。彼女が長い髪をかきあげる。オンショアがオフショアになる。より美しくみせるために海風が彼女の髪をなびかせる。
「ぼくの命を偶然救ってくれて助かったよ」
「偶然じゃないわ」
「えっ?」
「あなたがあの時にみたあのきらめく波は、わたしがつくりだしたの」
「君が?」
「そう。わたしはまだ幼かったから制御できなかったの。あなたへの想いがあふれかえってしまってあれをつくりだしてしまったの。人魚が誘惑する方法のひとつよ」
「ぼくをみていたの? ずっと」
「サーフィンを始めてから、今日までずっとね」
彼女が砂をひとすくいして握りしめ、砂時計のように落としてゆく。
「一年は一緒にいられるんだね」
「ええ」
「夢にくべてきた君への想いは消えずにあるよ」
「うん。わたしを好きなあなたでずっといてくれた。あなたに来る負の連鎖をあなたはあなたで止めていたわ。それであなたを好きになったの。わたしが好きになったあなたでずっといてくれた」
落ちる砂がなくなって、彼女は両手についた砂を払った。
「わたしたちは最初は、種の保存のために男たちを誘惑し、殺してた」
「うん」
ぼくは思い浮かべる。人魚に関する世界中の伝承や民話などを集めた本を、とある図書館のレファレンス室にあることを探し当てたぼくは何日も通って読んだものだった。その辞典のような大きさの古い本には挿し絵があった。ぼくは人魚が漁師を甘い歌声で誘っている絵を頭に浮かべている。
「それから、殺せない人魚があらわれた。ロマンスの始まりね」
ぼくは岩場の陰で愛し合う人魚と男の挿し絵を浮かべている。
「でも、ロマンスは悦びだけじゃなく、むしろ悲しみをおおく生んだわ」
ぼくは岩の上で泣き暮れる人魚の挿し絵を思い出している。
「拒絶されたり、こんどは逆に第三者に殺されそうになったりしてね」
ぼくは男の元の恋人が人魚を亡き者にしようとしている場面の絵を浮かべる。
「いつしかわたしたちが想っていることはひとつになった」
その本の挿し絵のなかでいちばん好きな絵をぼくは思い出している。それは、人魚が海から夜空の星たちを見上げて微笑んでいる絵だ。
「やがて、一日でも長く陸に上がろうと願う人魚があらわれた。わたしね」
「ああ」
「いずれは、時間を気にせずにどちらでも暮らせる人魚があらわれてくるでしょうね」
「なるほど」
「一年はあっという間よ」
「そうだね」
「二度とない美しい星の一年間」
「うん。こうしちゃいられない」
ぼくらは立ち上がり、ぼくはサーフボードを抱え、もう一方の手で彼女の手を握る。彼女は嬉しそうにぼくに微笑みかける。ぼくも微笑み返す。ぼくらは自然と駆け足になる。
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