【子育て】ごめんねを言いなさい!
下の子と上の子の揉め事。
5歳と小6だ。
7歳差…
手押し相撲で上の子が下の子を吹っ飛ばして、下の子が泣いているのに、呆然と上の子はただ見ている。
この状況に、どうして「ごめんね…」が出てこないんだろう。
とイライラしてきてしまった話。
上の子は明らかに「悪いな…やっちゃったな。」そう思っているのを感じた。
だけど、どうして良いかわからない感じだったのだ。
冷静に考えればわかることだけど、私の中で「ごめんね」が何故言えない?
そんなことにイライラしたんだよね。
「悪いと思っているのに、どうしてごめんねが出てこないの?」そう私が言うと、「ごめんね…」と上の子はすぐに言ったけど、もう何も言えない感じになって喋らなくなった。
どうして私はこんなにイライラしてしまったのか…
そこを深ぼった話をしていこうと思う。
私は悪いと思ったら、すぐに報告するし、何か失敗したと思ったら、すぐに謝る。それは、後に大きなことになることを知っていたし、隠しても仕方ないことだと思っているからだ。
問題は先延ばしにしない。そんな精神がある。
だから、もちろん「ごめんなさい」はすぐに伝えるようにしている。
と…思っていた。
だけど、素直になれなくて「ごめんね…」が出てこない自分もいることにも気づいた。
そして自分との対話にタロットを引いてみた。
母の愛?大きくて優しい愛?包みこむような…
私にはそれが足りてない…
そうも思ったけど、もっともっと深い部分。
それは、母から受け継いでいるものなのかもしれないと。
私の母は、「ごめんなさい」が言えない人だ。
いや、言ったことはあるかもしれないが、記憶にない。
母は謝れない人。
そんなイメージがある。
もしかしたら、これは私のイメージではなく、姉のイメージなのかもしれない。
「お母さんって謝らないよね?」そんなセリフが頭の中で鼓動した。
だからなのか、どこが原因なのかはわからないが、私は「悪いと思ったら、きちんと謝らないといけない」そんな感覚で生きてきた。
もちろん素直になれなくなってしまうこともあったし、身内や近しい人になればなるほど、謝りづらい感覚はある。
だけど、母のようになりたくないみたいな部分があって、子どもにもキツく言ってしまったり、間違ったなと思う部分はきちんと後になっても謝るようにしてきた。
だからこそ、いや、だからだ。
気になって気をつけて、自分の中にもある謝れない自分がいることが嫌で、それを娘に重ねて、イライラしたんだと思う。
だから、これは娘の問題じゃなくて、私の問題だ。
そのことに気づかせてくれた娘に本当に感謝したい。
ありがとう。
娘だって悪いと思っていなかったわけじゃない。
悪いと感じられているのだから、素晴らしいことじゃないか?
そんな風に思う。
それに、私が彼女のその驚いたことや、やっちゃった…って思った感情を受け入れていたら、自然にごめんねが出てきたのかもしれない。
でもね、「だから私はダメなんだ…」「こんな私は母親失格だ!」みたいな感情にはならないようにしている。
「あっそういう私もいるよね。」みたいなお気楽な感じ。
ここは本当に大切で、悲劇のヒロインしても何も解決しないし、ただただ自分が辛くなり、またイライラしてきちゃうから。
それで、娘にはもっと、もっと愛を伝える必要があるよ?
そんなメッセージがあったのかもしれない。
とにかく、私の中にある、ごめんねを言いなさいは昔から来ていたものだと思った。
そして、ごめんねについては、保育士だった時代からよく考えていたことでもあるのだ。
ごめんねは言えばいいのか?悪いと思っていなければ意味のないものだと思っていた。
それに、ごめんねを言うことがゴールじゃない。
何がいけなくて、どうすれば良かったのか。
そもそも悪いことだったのか?
ごめんねを言う必要があるのか?
そんなことをよく考えていたことを思い出した。
ごめんねも時と場合によるし、言わなくても分かり合える関係もあるけど、やっぱり伝えた方が良い言葉でもあるとも思う。
そして、私は娘にこう言った。
「ママのこういう言い方が、言えなくさせている部分があるよね。
ごめんね…」
と。
何が正しくて、何が間違いだなんて、本当は物事を違う角度から見たら正解なんてないんだ。
犯罪というものは、法律という指標があるけれど、それだってわからないから弁護士がいて、裁判がある。
だから、迷うし、だから探し求める。
それでも、そう思ったんだよね。そう話し合うことが大切なのかもしれない。
そして、自分の中のそういう凝り固まった部分とむきあうことが大切だと思う。
そのためにも、タロットはいろんな視点に気づかせてくれるから、楽しい。
自分だけが正しい!そんな考え方だと、生きづらいもんね。
ごめんねは言わなくても良い時だってあるんじゃない?って。