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白鳥伝説

記紀の最高傑作と信じて疑わないのかヤマトタケル。とにかくかっこいい。日本の脚本家の実力は全く信頼していないので映画化してほしくないけど、でも映画にしたらすっごく面白いだろうなあと思う。

ラスト、伊吹山の神気に当てられて弱っていき、ついに三重で力尽きた後に、陵から白鳥が飛び立つ。

大和で妻や子が白鳥を追って歌を歌う。
この歌は今も大喪の礼で歌われる。


景行天皇の実在性

孝霊天皇から何代目?

ヤマトタケルは景行天皇の皇子で、母は播磨稲日大郎姫だ。祖父は孝霊天皇の皇子稚武彦で、そうすると世代が合わない。
つまり、祖父と倭迹迹日百襲姫が同じ世代になるのだが、倭迹迹日百襲姫は崇神天皇の祖父母世代だ。
もし垂仁と崇神が同じ時代としても、なお一世代足りない。景行天皇は垂仁天皇の息子だからだ。
卑弥呼と稚日女のことがあるし、年の離れた兄弟なのかもしれないが、もう1つ気になることがある。
景行天皇の伝説が、大和よりも九州と播磨、関東に多いことだ。
もしかして、邪馬台国の遷都前の人なのじゃ!?
つまり、崇神・垂仁と同世代。
とすると、ヤマトタケルの話は、神武天皇や阿加流姫と同じ頃の話なのでは!?

通説では、様々な英雄伝説を混ぜたものだろう、と言われている。特に尾張氏に関わりが深いので東征は尾張氏の英雄伝説、征西は西国の誰かではないか、と言うのだ。

基本私は書かれていることを信じることから始めるので、実在は信じたい。
これ全部空想だったら、紫式部真っ青のすごい作家だと思うわ。

実在か否か

記紀だけの話ならばわからないと言えるが、各地に伝説が残っているので、実在だろうと思う。
特に播磨国風土記の皇后との出会いの物語は生き生きとしている。

播磨国風土記では、景行天皇は大阪にて、あなたは私の王ではないとその土地の人に言われている。

やはり、遷都前の人なのではと思う。

もしも世代が同じなら

倭姫命

崇神天皇と垂仁天皇が同世代として、崇神天皇が長臑彦として、そうすると豊鋤入姫や倭姫がどうなるかと言うと、二人は同一人物ではないかと。
何なら、開化天皇もおかしい。竹野姫の世代を考えると、遠津年魚目目妙姫も倭姫らと同一人物ではないかと。
とするとどうなるだろう。
卑弥呼の鏡を持って彷徨った倭姫が、豊鋤入姫で遠津年魚目目妙姫ならば、荒河刀畔の娘であり、荒河が丹生都比売神社のあるところなので、つまり倭姫は阿加流姫だ。

ヤマトタケルは叔母の倭姫から草薙剣を渡される。

阿加流姫の甥は、父方から見れば、一人居る。
神武天皇だ。年上だけれども、甥は甥だ。

タケルは誰なのか

もしもヤマトタケルが神武天皇だとしたら、イズモタケルは誰なのか。

イズモタケルとヤマトタケルの物語は、崇神天皇と垂仁天皇の時代の神宝検校と同じ物語だ。

出雲神宝をあらために行ったのは崇神天皇の時は建諸隅だ。その時九州に行っていた出雲振根は帰ってきて驚いた。弟の飯入根が大切な神宝を大和の大王に渡してしまったのだ。このことを深く恨んで、出雲振根は弟を殺してしまう。

ヤマトタケルは熊襲で川上梟帥を討伐した後、出雲に立ち寄り、そこでイズモタケルと親しくなる。
ヤマトタケルはイズモタケルを殺すことを決意していた。
そして殺すのだが、この殺し方と殺した後に歌う歌が出雲振根と同じだ。

この時に出雲にいたのは、須佐之男とその子らだ。
阿加流姫の他に伝わるのは、大年神などがいるが、いずれも人格のない神で、人格がある神は二人。
五十猛と八島士奴美だ。
もし、天忍穂耳が生きていたなら天忍穂耳も候補になる。
八束水臣津野の子に天冬衣(あまのふゆきぬ)がいる。天葺根ともいう。
鸕鶿草葺不合の葺だ。天冬衣は越の国に行って、越の国を平定した。大国主と奴名川姫の物語は天冬衣の物語だろう。
もしかしたら、逃げた長臑彦を追って出雲まで来たのかもしれない。
もしかしたら、長臑彦の背後に居たのは須佐之男だったのかもしれない。

熊襲は何故刃向かった

神武天皇が日向から来ているのに、四道将軍を派遣したり、ヤマトタケルが征西に行ったり、何でだろうと子どもの頃から思っていた。
球磨族と曽於族が大和にまつらわなかったと聞いて、そんなもんなのか、とぼんやり思っていたが、九州南部のみならず北部も意外と恭順していない。
いや、従っているときと刃向かっている時があって、最終的にちゃんと統一出来たのは磐井の叛乱の後なんじゃないかとすら思う。

熊襲梟帥がいたのは熊襲なのだが、そこにいた首領の名は厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)と言う。ちなみに娘もいて市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)と言う。
どこから熊襲梟帥が出て来たのか記紀を読んでもよくわからない。
この姉の方が景行天皇の恋人となるが、殺される。

妹市鹿文は火国造に与えられる。火国造は神武天皇の子神八井耳または崇神天皇の頃に遅男江命が命じられたり、景行天皇の子豊戸別だったりするのだが、すべて同時代で、神武の子がまだ生まれていないなら話は通る。

その火国造が刃向かったため、ヤマトタケルが派遣されるに至ったのだ。
取石鹿文もしくは川上梟帥という。

ところで火国熊本は、地名が出雲と類似している。出雲とつながりが強いところだったようだ。
九州南部は、弥生文化の中心地が九州北部だと思われているため文化の後進地域だと思い込みがちだが、海の道は二つある。対馬経由と、沖縄・奄美経由だ。
火山があり、陸地が見えなくても噴煙を灯台代わりに航行が出来た。また、鳥が尊ばれるのも陸地の見えない航海の時に陸地を探すために鳥を飛ばすその名残だろうと思われる。農業では鳥は害獣だが航海では非常に役に立つのだ。
弥生人たちは初めは沖縄経由で来たことだろう。
対馬経由は前漢に楽浪郡が置かれ朝鮮半島経由が中国までの近道になるまで開かれなかった経路だろう。
狗奴国が有明海側にあったのはその名残だろう。
それでもかつて住んだ九州南部を捨てたわけではないだろう。
出雲人たちは九州南部から出たのかもしれない。
鹿文(かや)と言う名前はいまだ九州南部と繋がりのあった証拠なのかもしれない。
記紀だけを頼りにまつろわぬ野蛮人たちと見るのは間違いかもしれない……。

征西と東征の経路

ヤマトタケルの征西は、実は神武天皇の東征の経路、国譲りの経路と重なる。

ヤマトタケルの征西 川上梟帥は鹿児島の首長だ

ヤマトタケルの東征は伊勢津彦(出雲建子)や香香背男の逃走経路と一致する。

ヤマトタケルの東征 赤線は神社伝承

大甕神社は香香背男が倭文神に降った地だ。

国譲りと出雲建のエピソードと神宝検校は同じ事件ではないだろうか。

ヤマトタケルの物語は国譲りを人の世に移したもので、神武東征とその後日譚かもしれない。
伊勢で草薙剣を倭姫から渡されたのは、天日鷲の伊勢津彦掃討に続く物語かもしれない。
伊勢に伊勢神宮が置かれたのは、伊勢津彦を追ってここに来たときに宇佐と似てることに気付いたからかもしれない。
伊勢津彦が香香背男ならば、伊勢津彦、出雲建子は須佐之男だ。

稚日女が安楽島に居たのはここが須佐之男の勢力範囲だったからかもしれない。

神武天皇が、東から行こうとしたのに熊野(南)から険しい山中を抜けたのは、伊勢が須佐之男の勢力範囲で、長臑彦と繫がっているとわかっていたからかもしれない。

伊勢には蘇民将来の伝説が伝わる。

台与と神武天皇が須佐之男を追っているときに大和を守ったのは垂仁天皇だろうか。

纏向に宮を置いた初めての天皇だ。

かくて、考古学と記紀と神社の社伝は繫がる。

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