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天香久山のぼりたち
中学は隣が大きなお寺で、春になると廊下の窓から本堂脇の桜の花びらが吹き込んで、とても雅だったことを覚えている。
由緒あるお寺なので、お葬式などがあると偉い方々が参列なさるらしく、今日は笑ってはいけませんなどと先生から注意がされた。箸が転げてもおかしい年頃には難しい注文だった。
1階はお寺との境の塀が日差しをさえぎり、いつも薄暗かった。
その1階の廊下に、いつまでもポスターが貼り出してあった。
大和三山の写真を背景に、
いにしえの ことはしらぬを我見ても ひさしくなりぬ 天香具山
と言う和歌が書かれていた。
響きがとても綺麗で、修学旅行が待ち遠しかった。奈良京都なのは他の学校と同じだが、飛鳥を回ると聞かされていたからだ。
天香具山は明日香村ほど近い橿原市の東隅にある。
難波の碕
難波にはじめて宮を築いたのは応神天皇だ。その次の仁徳天皇もまた難波に宮を築く。当時の大阪は上町台地が南から岬のように長く張り出して、湾をふさいでいた。上町台地の岬を難波の碕と呼んだ。
湾には大和川と淀川の水が流れ込み、川からの堆積物で水深は浅かった。大雨が降るとしばしば水害をもたらした。
そこで仁徳天皇は掘割を作り、上町台地の内側の水を外に流した。
そこから湾は急速に干潟となり、現在の地形に近づいていく。
神武天皇の時代は河内湖Ⅰの時代だ。
午年春二月丁酉朔丁未十一皇師遂東舳艫相接方到難波之碕會有奔潮太急因以名為浪速國亦曰浪花今謂難波訛也
三月丁卯朔丙子遡流而上徑至河內國草香邑靑雲白肩之津
日本書紀には難波の碕がちゃんと出ている。
当時の地形が反映されているので、なにがしかの歴史的事実が伝えられていたものとわかる。
故從其國上行之時經浪速之渡而泊青雲之白肩津
古事記にも難波を渡り白肩津に至ることが書かれている。
草香邑靑雲白肩之津は生駒山麓、現在の東大阪市日下町のあたりに比定されている。
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この日下町は、石切劔箭神社という古い神社のすぐ近くにある。
石切劔箭神社は饒速日を祀る神社で、社伝によると、宇佐から出発した饒速日が上陸したのがこの地だという。
一方、子の天香語山は紀ノ川から大和の国に入ろうとしていた。
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神武東征が魏志倭人伝の男王を討つ旅路であり、饒速日も天香語山も目的が同じならば、時期は同じだ。
神武天皇は孔舎衛坂で長臑彦の軍勢と出会い、敗走する。
孔舎衛坂もまた日下にある。石切劔箭神社から生駒の尾根を登っていく山道が孔舎衛坂だ。
神武天皇が出会ったのは、同じように大和に攻め入ろうとしていた天火明ではなかったろうか。
この後、神武天皇の兄たちが相次いで没する。
長兄彦五瀬は長臑彦軍の矢傷がもとで、稲飯と三毛入野は海に自ら入って、神武天皇は兄弟でただ一人生き残る。
ここにたどり着くまでの日々
宇佐を出た神武天皇こと狭野は、まずは岡田宮に行く。
遠賀川河口周辺と言われている。後に神功皇后もここに宮を築いた。
古事記によれば、岡田宮に一年滞在していた。
遠賀川流域は、先代旧事本紀に曰くの物部氏が住んでおり、これをそのまま信じれば物部氏の支配地域だ。
日本書紀では岡田宮に居たのは40日ほど。
いずれもただの停泊ではなく、滞在している。
この後、広島に向かう。広島市の郊外、猿猴川のほとりでまたしばし滞在する。ここは後に安芸の国府が置かれた土地と推定され、有力な豪族が居たものと思われる。残念ながら安芸国風土記は現存せず、記紀にも記載がないことからここに誰が居たのかは断言できない。古代の安芸に力を及ぼした豪族は紀氏と推定されているから、紀氏の可能性はある。
ここに古事記によれば7年、日本書紀に寄れば2ヶ月滞在している。
次に、吉備にゆく。
現在の岡山市に宮を築き、古事記によれば8年、日本書紀によれば3年滞在して、軍備を整えた。
ここまで、古事記で16年、日本書紀で3年4ヶ月かかっている。
なお、台与は13歳で即位し、266年に晋に遣いを送っている。
邪馬台国について書かれた最初の文献の魏略が260年代の成立とみられることからも、古事記の方は色々無理がある。
つまり、台与が先に大和に入り、神話の通りに長臑彦を従えて、神武と戦い、和解して大和を譲ったのだとしたら、266年に遣いを送れない。
台与は神武よりも後に大和に入らなくてはいけない。
さもなければ神武天皇の話は台与とは切り離さなければならないが、井氷鹿、高倉下、天火明とここまで符合する神武天皇を別世代には置けないと思う。
日本は二倍暦だったので二倍暦で数えると言う手もある。
吉備は大和に入った物部氏の出身地と思われる。大和の物部氏の集住地からは吉備系の土器が発見される。
遠賀川、広島、吉備で神武天皇は各豪族の力を借りて軍備を整え、3年以上をかけて難波に向かったことがわかる。
それだけの時間があれば、少彦名の神話も、胸鉏姫の神話も、全て入るのでは。
大きくなった阿加流姫はいよいよ大和の男王を打ち倒すことを決心する。
十握剣の持ち主
神武天皇の三人の兄のうち、長兄は長臑彦に敗れて戦いの傷が元でなくなるが、次男、三男は自ら海に入り常世の国に行く。
次男稲飯は鋤持神となり、新羅の王となった。
三男三毛入野は常世の国に旅立った。
新羅の王となったなら、この稲飯は脱解だ。
三毛入野は阿遅鉏高日子根ではないだろうか。
豊受女神の別名が三狐神だからだ。
入は相手に入るという意味ではないかと思う。
三世紀後半ならば、もう家制度は出来ていて、長男長女が家を継ぎ、次男次女以降は誰と結婚しても死すれば実家の墓に入った。
実家を捨て別の家の墓に入る場合を入と言ったのではないか。
たとえば御間城入彦はミマキに入る、ミマキは何かと言えば、邪馬台国の官名だ。彌馬升、彌馬獲支と、ミマがつく。
ちなみに崇神天皇の名だ。
活目入彦も同じだ。
官有伊支馬次日彌馬升次日彌馬獲支
伊支馬、イキマだ。
これも家を捨て、官に生きたという意味か、何かそれに近い、他に入るという意味があるのではないかと思う。
邪馬台国畿内説では崇神天皇の娘豊鋤入姫が台与に比定される。
豊に鋤に入だ。
ちなみにこの姫は母を遠津年魚目目妙姫と言って、この名前からして怪しいのだが、祖母が紀氏だ。荒河刀畔という。
荒河は紀ノ川の別名で荒河荘は現在のかつらぎ町のあたりにあった。
つまり、丹生都比売神社のあたりだ。
遠津は遠い港、年魚目はアア目、もしくは東風女、目妙姫は同じ名の姫が倭迹迹日百襲姫の別名として出て来る。倭迹速神浅茅原目妙姫だ。
そんなわけで三毛入野は阿遅鋤高日子根だと思うのだ。天日槍だ。
熊野の沖で、脱解が脱落し新羅に帰った。
ここまでは十握剣は脱解が持っていたのだろう。
この後、高倉下が十握剣を持って現れるので、ここから阿遅鋤高日子根の持ち物に変わる。託されたのだろう。
系図を書けば脱解は神武天皇の腹違いの叔父にあたる。叔母は大叔母でもある。
鸕鶿草葺不合は母の妹と結婚している。
ことによったら、神武天皇の母もまた稚日女かもしれない。
記紀では高倉下は尾張氏の祖の人間として描かれ、夢でお告げを受けたので倉を探したら布都御魂剣があり、お告げの通りにそれを持って神武天皇のもとに駆けつけた、とある。
何故倉にあったのか、何故高倉下が選ばれたのか理由は書かれない。
椎根津彦
名前が珍彦(うずひこ)なので、紀氏、魏志倭人伝の狗右智卑狗の可能性もある。
珍はちぬと読んで、茅渟海(大阪湾)の海民であったという説もある。
彼の案内で潮目が複雑な瀬戸内海を渡りきるので、後者の方が説得力がある。
彼が紀氏であれば、広島にいたのはやはり紀氏で、彼の仲立ちで力を得たのかも知れない。
紀氏の助けがあるので生駒で敗走した後、神武は南に向かったのかもしれない。
椎根津彦は後に倭宿禰の称号を賜る。
倭宿禰は海部氏の本系図にも出て来る。天火明の曾孫にあたる。記紀を素直に読んでも世代が合わないので、よくこれを根拠に海部氏の系図は偽造だと言われる素だ。
だが、全ての系図が、天照大神から垂仁天皇までを引き延ばし、繰り返し、つぎはぎしてるのだとすれば、これくらいの時代のズレは、ああ、中央の統制が取れてなかったのね、で解決する。
いつの時代に天照大神から垂仁天皇までを引き延ばしたのかはわからないが……。
天火明と椎根津彦が繫がっていた可能性もあるわけだ。
紀氏の内彦にしろ、大阪湾の茅渟彦にしろ。
天香具山
そうして紀伊山中で高倉下(天香語山)に助けを得た神武天皇はその後井氷鹿などと会い、宇陀で弟猾に出会うことで勝利の一歩を歩み始める。弟猾は宇陀にいた豪族だ。
その後、弟猾は椎根津彦とともに天香具山にのぼり、その頂上の埴安(赤土)を持ち帰って丹生川上に祀り、勝利を祈って、それが直接のきっかけとなって神武天皇側に勝利をもたらした。
天香具山の埴安は、崇神天皇紀にも出てくる。