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鵜の瀬の白石に祀らるる

若狭には不老不死の神人がいる。
若狭国、遠敷川を遡ると鵜の瀬というところがある。その白石の上にまずは彦神が、ついで姫神が降臨した。
彦神の名は若狭彦、またの名を彦火火出見、姫神の名を若狭姫、またの名を豊玉姫という。


二月堂のお水取り

旧暦の二月に東大寺二月堂では修二会という行事が二週間に渡って行われる。
8世紀の半ばに起源を遡り、観音菩薩感得の再現行事になる。
この修二会のクライマックスに、お水取りが行われる。
伝説によれば最初の修二会の時に若狭の遠敷明神だけが遅れて参加した。お詫びに若狭の変若水を送るようになった。
お水取りの御香水は境内の閼伽井から汲み上げられるが、閼伽井は地下で遠敷川上流の鵜の瀬に繫がっているという。

若狭彦と若狭姫

鵜の瀬は遠敷明神が降臨したところだ。
遠敷明神は、若狭彦と若狭姫と言う。
またの名を彦火火出見と豊玉姫。
記紀で言うならば、山幸彦と、海神の娘だが、山幸彦の神話が天忍穂耳と神武天皇の間に差し挟まれる上、この名は神武天皇と阿加流姫の名でもある。

ところで昨日の白鳥伝説だが、実は経路上にないのにヤマトタケルの伝承があるところがある。
石川県小松市の加須賀美神社だ。
大和の纏向日代宮を起点にするとどうしても入れられない経路なのだが、出雲から建御名方を追って諏訪まで行くならばそこは通る。その経路上に若狭もある。

国譲りは古事記と日本書紀で経路が変わる。
その両方がヤマトタケルの行程と同じなので、両方ともが実際の出来事で別の人物を追う旅路ではないかと思う。

八島士奴美

一切存在感のない人物だが、生まれは須佐之男の正妻稲田姫の息子で、清之湯山主三名狭漏彦八島士野美という長い名前を持っている。
出雲には玉造温泉という有名な温泉地があるが、この一番奥に玉作湯神社がある。神社の東にある花仙山から瑪瑙が産出し、この地で玉作部が管玉などを作った。
また玉作湯神社の南にある要害山は湯山と呼ばれた。
和奈佐彦の伝説がある和奈佐神社は玉造温泉に流れる玉湯川を遡るとたどり着く。
要害山を越えると出雲忌部の里がある。出雲忌部と玉作部は祖先を同じくする。
出雲忌部の里の南に、須佐之男の宮、須我神社がある。

八島士奴美の母、稲田姫は大山祇の孫と言うことになっているが、実は北陸でよく信仰されている。
その御子神を気多大神と言う。
御子神はただ一人八島士奴美なので、気多大神は八島士奴美と言うことになる。気多大神は越、能登、播磨で信仰される。
これは、八島士奴美が日本海から北陸経由で逃げた神だからではないだろうか。
名前の末尾が美なので女の転訛で女神の可能性もあると思う。

後に北陸から継体天皇がやってくる。そして継体天皇から蘇我氏が重用され始める。
蘇我氏は継体天皇に付いてやってきた北陸の豪族ではないだろうか。
その祖先は八島士奴美ではないか。
蘇我氏のソガはスガノユヤマヌシのスガ、出雲の素鵞神社のソガではないだろうか。

八島士奴美が誰か、というのはまだまだ調べる余地はあると思う。ひょっとしたら阿加流姫や神武天皇自身かもしれない。

神々や古代天皇が子だくさんなのは、権力があったため妻をたくさん持てたから、と解釈は出来るが、弥生時代の医療事情だと子どもは成長しないうちに亡くなることが多く、女性も出産で亡くなることが多かった。
神々でも天皇でも女性の数が有限なのだから子どもの数も有限だ。

とりあえず今は若狭彦・若狭姫は八島士奴美を追いかけた神武天皇と阿加流姫の痕跡、という可能性で考えてみようと思う。

月読の持てる変若水

月には不老不死の妙薬がある。
何故あるかというと、時は紀元前、中国四千年の歴史のさらに前の時代、中国は帝夋が治めていた。妃を羲和と言う。帝夋と羲和の間には十人の王子が生まれ、彼らは太陽の精であった。
はるか東扶桑の国の扶桑の木に留まり、毎日一人ずつ天上に駆け上がった。

ところがある日、彼らは一度に全員で空に昇ってしまう。
地上は灼け灼熱の大地となった。農作物も育たない。人々は困った。だが頼んでも太陽たちは言うことを聞かない。
そこで帝夋は弓の名手である后羿に1つを残して残りの太陽を射落とさせた。
見事九つの太陽を射落とした后羿だが、帝夋は自分が頼んだこととは言え、子を射落とした后羿を恨んだ。
そして后羿とその妻嫦娥を神籍から落としてしまった。
そうすると不老不死ではなくなる。
后羿夫妻は不老不死を取り戻すために西王母のもとに行った。西王母の神苑には不老不死の妙薬があった。
めでたくその薬を貰い不老不死に戻るはずだったが、妻の嫦娥はその薬を持って月まで逃げてしまった。

今も月には不老不死の薬を持つ嫦娥が居る。

これが月に不老不死の薬がある理由だ。

竹取物語でかぐや姫が不老不死の妙薬を帝に渡すのはこの理由だ。
かぐや姫は月で罪を犯したというが、あるいは夫の分の薬も盗んで逃げたことかもしれない。

八百比丘尼

若狭の名の由来が不老不死から来ているためなのか、不老不死の伝説は他にもある。
それも、若狭彦・若狭姫神社のある小浜にだ。
娘は後に八百年生きたことから八百比丘尼と呼ばれることになる。蓬莱の人魚の肉を食べたため不老不死になったのだ。
娘が生まれた土地の伝説は数々あるが、亡くなった地の伝説があるのは若狭で、また、都に八百比丘尼が現れたときも若狭から来たと名乗った。

人々は不老不死を願うが、実際に不老不死になってみれば、愛する人々に先立たれ、生きる目的も失っていくのだろう。
彼女は生きることに疲れ、死を願うようになった。
やがて、願をかけるために丹生都比売神社を訪れた。
そして稚日女に鏡を奉納した。

その願いが叶ったのか、若狭に戻った八百比丘尼は1449年、若狭小浜の大巌窟に入り、亡くなった。
795年の生涯であったという。

後に丹生都比売神社の、八百比丘尼が鏡を奉納したという鏡池を浚ったところ、八百比丘尼の奉納した鏡が出て来た。

なぜ彼女は、遠い丹生都比売神社まで行ったのか。

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