竹野姫の祈り
竹野姫は尾張の建諸隅の娘だ。開化天皇に嫁ぎ、彦湯産隅をもうけた。
丹生都比売神社の稚日女の子高野御子からこの竹野姫が稚日女の娘なのでは? 阿加流姫なのでは? と推理したが、竹野姫が阿加流姫と関わりありそうなエピソードは他にもある。
尾張と物部の系図
血縁・婚姻関係がわかりにくいのでまず系図を載せる。
主に先代旧事本紀からで、私の憶測や推定は入っていない。
高さは世代で合わせてある。
竹野姫は右下の方にいる。兄弟に倭得玉彦がいる。
丹生都比売神社の稚日女の子高野御子からこの竹野姫が稚日女の娘なのでは? 阿加流姫なのでは? と推理したが、竹野姫が阿加流姫と関わりありそうなエピソードは他にもある。
鵜鹿鹿の赤石の玉
系図の真ん中の一番下だが、建額赤という人物がいるが、タケヌカカと読む。タケ+ノ+ウカカだ。
日本書紀によると、天日槍がやってきた時、垂仁天皇に羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま)、出石の小刀、出石の桙、日鏡、熊の神籬を持ってきた。
そして、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の太刀を献上した。
ウカカ、だ。
この一点を持っても、尾張氏と天日槍は何らかの関係があると思っていいと思う。時代的には孝昭天皇の頃なので、垂仁天皇よりも6代遡る。
古事記では応神天皇の時代に天日槍の物語が昔のこととしてさしはさまれている。そこでは天日槍が持ってきたのは珠×2,浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、奥津鏡、辺津鏡となっている。
奥津鏡、辺津鏡
奥津鏡、辺津鏡は今、籠神社にある。同じ響きで漢字が違うが、漢字は後であてるものなので気にすることはない。
籠神社では息津鏡、辺津鏡と書く。
この二面の鏡は天火明が天降る時に持ってきた宝だという。
天火明が阿加流姫じゃないかと疑っている私には、何の不思議もないことだけれど、ほかの人はどんな説明をしているのか気になるところだ。
息津鏡は内行花文鏡で、直径17.5センチ。後漢の時代のもので、中央に長宣子孫の文字が入っている。
この息津鏡の文様は伊都で出土した46センチあまりの大型の内行花文鏡と非常によく似ている。
伊都の内行花文鏡は中国の周の単位である咫で8咫。つまり八咫鏡だ。
天皇家のレガリアである天照大神の鏡と同じ大きさとなる。
このことから、八咫鏡の同笵鏡という説がある。同笵鏡とは同じ型で作られた鏡ということだ。
ちなみにこの鏡が出土した平原の王墓は、被葬者が女性だ。
邪馬台国の時代の女王と見られるが、伊都は魏志倭人伝の行程にはっきりと出てくる国であることもあって、卑弥呼だとは疑われていない。
この女王はやはり伊都国の女王ではないのかという気が……。
周の時代の尺度で思い出したが、私は一切使用しなかった短里は同じく周代の単位で、昔に中国から入ってきてそのまま日本で使われていたのではないかというのが短里説だ。里数は倭人の言を採用したと。
伊都や奴などわかっている国々間の距離が短里でないと説明できないのだ。
短里を使うと大和まではたどり着かない。
周代と言えば、倭人自ら名乗る太伯の後裔と。
これも魏略が初出だ。
鬼の伝説
竹野姫は開化天皇に嫁いだ後、晩年に丹後に戻ってくる。そして竹野川の下流で、天照大神を奉斎して老後を過ごした。
海に近く、この一帯にはもう一つ、聖徳太子の母とが、蘇我と物部の争いを避けてやってきたと言う伝説がある。
それとは別に、継子である麻呂子親王も鬼を追って来ている。
麻呂子が追った鬼は大江山にいた土蜘蛛であり、大江山にいた土蜘蛛のはじまりは丹後国風土記残欠の、青葉山に住む陸耳三笠だ。
麻呂子親王の鬼退治伝説が成立したのは7世紀以降のことだと推定されている。
竹野神社の摂社斎宮神社には竹野姫とともに麻呂子親王と、何故か日子坐とその異母弟建豊波豆羅和気が祀られている。
日子坐と建豊波豆羅和気はともに竹野姫の継子だ。
青葉山から土蜘蛛陸耳三笠を大江山まで追い詰めたのは日子坐だった。
麻呂子の母は、日本書紀では広子という。
上宮聖徳法王帝説(聖徳太子について書かれた現存するもっとも古い資料)には葛木当麻倉首女伊比古郎女という。
葛木の当麻は現在の當麻寺のあるあたりで、垂仁天皇の頃、ここに住んでいた当麻蹴速が出雲の野見宿祢と相撲をして負けて死んだ。その後この地は野見宿祢のものとなった。
野見宿祢は土師氏の祖で、土師氏は出雲日置氏の同族だ。出雲日置氏は神門臣と思われ、出雲の王族だ。
そしてその日置氏は香春神社の元社のさらに元社を作った日置約子の出身氏族と思われる。
大神比義は日置約子ではないかと私は思っている。その大神比義は欽明天皇の頃の人であり、麻呂子親王はそのひ孫の世代、おそらく100年と離れていない時代の人物だ。
また、聖徳太子の母間人皇后はまたの名を鬼前大后という。
間人は人と鬼の間を取り持つという意味だともいう。
竹野神社では12月の丑の日にばらばらにされて封じられた鬼を鎮める鬼祭りがおこなわれる。
この日は音を立ててもいけない。外を見てはいけない。もし禁をおかしたら、三年以内に死ぬという。
麻呂子王子と間人皇后の伝説は、もとは竹野姫と日子坐の伝説ではなかったか。
麻呂子親王の母の名「イヒコ」、祖父の名「ヒリコ」、出身地土師氏の支配地域。大江山。竹野姫と日子坐、間人皇后と麻呂子の関係が同じだ。
ではその日子坐とは誰か。
日子坐の系譜
冒頭の尾張氏の系図にも出て来るのだけど、日子坐は開化天皇の息子だ。
母は和珥氏の娘で姥津姫(ははつひめ)。またの名を意祁都比売(おけつひめ)。妃にも袁祁都比売(おけつひめ)がいるが、その袁祁都比売の子孫が神功皇后だ。
別の妃に沙本之大闇見戸売がいるが、その間に出来たのが狭穂姫と狭穂彦で、狭穂彦の叛乱と狭穂姫の悲劇的な死のエピソードが記紀の中でも光っている。狭穂姫と垂仁天皇の間に生まれた子が出雲大神に祟られた誉津別だ。
また息長水依比売という、天御影神の娘も妃に居る。
息長に天御影。
それに水依は美佐利ではないか。
これは下照姫ではないか、という推理を前にした。
天美佐利の鎮まる粟鹿神社には日子坐の墓と伝わる塚もある。
そして、ミズヨリはミソオリではないかとも思う。
天豊足柄姫の妹、御衣織姫。三島の溝樴姫ではないかと疑った石見の姫神だ。
系図をもう1つ載せよう。
葛城氏中心の系図だが、賀茂氏、三上氏、物部氏、三輪氏が絡み合っていて、上の尾張氏・物部氏と合わせてみると、古代天皇家はこれらの家の中で完結しているのがわかる。
それらの家は全て台与に関係がある。
日子坐の母は尾張氏系図の、右側上から二段目、宇奈比姫の後裔だ。
姥津姫は、安房忌部氏系図の天津羽羽を思い出させる。
意祁都比売は御食津姫ではないか。妃の袁祁都比売都同一人物ではないか。
竹野姫の子彦湯産霊と日子坐は同一人物ではないか。
日子坐は天日槍ではないか。
竹野姫は日子坐の母ではなく、妃ではないか。
和珥氏を追うとどの系図でも事代主にたどり着く。
神武から垂仁まで(ことによったら景行天皇まで)同じ時代に入るなら、登場人物は重なっていく。
竹野姫が竹野川の河口で天照大神に祈ったのは、后を引退して神に祈る日々を過ごしていたのではなく、磯砂山を越えて、和奈佐の大麻比古に裏切られ、その後に丹後の王に助けられて休んでいたためではないか。
そこに天日槍が迎えに来たのではないか。
この海岸は豊岡に近い。
豊岡の名は豊受女神に由来する。
豊岡盆地の隅に、天日槍の伝説のある出石がある。
冠島・沓島から籠神社にたどりつき、磯砂山を越えて和奈佐の夫婦に保護されて、その後丹後の王のもとに身を寄せる。そして海辺で静養をする。
一連のエピソードは繫がっている。
阿加流姫の一生の、どこに入るエピソードなのか。