虐げられる神の子
かつて、御頭祭では神使(おこう)さまと呼ばれた年端も行かぬ少年が、馬に乗り湛木を回った。
人々は神使の少年を馬から引きずり下ろそうとし、また打った。虐待したのだ。古代には殺されていたとも言う。
また鹿75頭をはじめとした生贄も神に捧げた。
神は湛木を通して降りてくる。湛木に囲まれたのが聖域だ。
御頭祭は諏訪大社上社で春に行われる祭だ。
なお、現在では生贄は使われず剥製にとってかわられている。
また、神使も江戸時代には絶えていたようだ。
神の子と言われても、打たれ虐げられる役を誰が我が子にさせたがろうか。
また御贄柱に縛られて、実際に殺されかけた。救われるという仕立てになっていたようだが、何かの故事を再現しているように見える。
後期には流民の子どもなどを神使に仕立てていたとも言う。
洩矢神
建御名方が諏訪まで落ち延びたとき、諏訪には洩矢神をはじめとした土着の神々がいた。
やがて和平が結ばれ、洩矢神の娘と建御名方の子が婚姻する。
洩矢神の孫の千鹿頭神が洩矢の祭祀を司っていたが、やがて諏訪を離れることになった。
そうして建御名方の子孫が洩矢の祭祀を受け継ぐことになり、神長守矢氏となった。
千鹿頭神は近津、都都古、智方などと名前を変えながら、東北南部から関東、中部に信仰される。千鹿頭神信仰はところによりミシャグジ信仰と同一となっている。
湛木と石棒の信仰だ。
ミシャグジ信仰
ミシャグジは御佐口と書くが、御石神だ。
ミシャグジの大祝は年端もいかぬ少年であった。
千鹿頭と習合しているミシャグジ神だが、諏訪では昔ミシャグジ神は諏訪の神(建御名方)の御子と言われていた。
このことから、建御名方自体を、諏訪を大和朝廷の神話体系に取り込むための創作とする研究者もいる。
建御名方と御穂須須美を追ってきた私にしてみれば、建御名方創作説は容易に頷けないのだけれども。
諏訪では建御名方は守矢山に天降ったという伝説がある。
このことから、洩矢神と建御名方がいつの時代にか入り交じった可能性はある。
また守矢氏が守矢の名を持つ神長であることと、御子神に見立てられる神使が虐げられることから、この地では建御名方は歓迎されていない、と言うことが推測される。
御子神と言うが、神武天皇がおそらく20代、建御名方や御穂須須美は年下だろうと思う。
年端もいかぬ少年は建御名方自身かもしれない。
諏訪の神は湛木を伝って降りてくる。御柱は湛木だ。それは出雲の信仰ではない。
諏訪の神は今も洩矢神なのかもしれない。
日ユ同祖論
その血なまぐささと奇妙さから注目される御頭祭だが、日ユ同祖論の根拠の1つに数えられている。
まずはモリヤという名前だ。
イスラエル、シオンの山を古くはモリヤ山と言った。
アブラハムの時代と言うから、紀元前2000年頃の話になる。
西欧では聖書と考古学を結びつけ、聖書の年代を現実の歴史に当てはめるので、聖書のエピソードは西暦に直せることが多い。実際に発掘してみると意外に聖書の記載は正確で、ユダヤ人って余程の記録魔だったんだなと思うことしきりだが、とりあえず紀元前2000年の話に戻そう。日本では縄文時代、中国では夏王朝が始まる頃だ。
ユダヤの祖アブラハムは神に命じられて子を生贄に捧げようとする。子を愛していたため苦渋の決断だった。そこにはモレの樫の木という一本の木があった。子を犠牲の祭壇に縛り、ナイフを振り上げたとき、御使いが止めに入る。そして犠牲の羊が代わりに贈られる。
これがイサクの燔祭と呼ばれる旧約聖書の物語の1つだ。
この物語と御頭祭がとても似てる、と言うのだ。
ちなみに籠神社の神紋が六芒星だったりするのも根拠の1つに数えられている。
なお、後に豊受女神を奉ずることになる秦氏は聖徳太子信仰を作っていくのだが、秦氏は景教徒だという説もある。景教はネストリウス派キリスト教のことだ。
聖徳太子厩戸王の生まれた馬屋の伝説が、キリストの誕生から来ているのではないか、それは秦氏が作為的に入れたのではないか、というのが根拠だ。
秦氏と豊受女神が結びついているのだとすれば、全部秦氏の仕業にすれば解決するのだが、大きな問題がある。
秦氏が日本に来たのは4世紀。
ネストリウス派キリスト教徒が異端とされるようになったのが5世紀。
景教が中国に伝わったのが7世紀だ。
もし秦氏がキリスト教と繫がっていたとしても原始キリスト教だろうなあ。
秦氏が縁もゆかりもない諏訪に行って信仰を書き換えるのは難しそうかなあ。
ちなみに籠神社の六芒星は籠目紋で、天火明の乗ってきた籠舟から来ている。
また、湛木については、おそらく弥生時代も含めて当時の信仰は神聖な木で聖域を作るものだった。
常陸国風土記などに、ヤマトタケルが神を祀る時の様子が出ている。
木に玉や剣や布や鏡をかけて神籬を作り、神を祀るのだ。
動物を犠牲にする儀式が残ったのは、仏教が入った後も諏訪の神官たちの力が強かったからのようだ。かつては動物を犠牲に捧げ、人と神とが供食した。
日本人は魚を犠牲と取らないが(私も水族館でマグロを見るとまず最初にうまそうだなと思う)伊勢の神饌も海の生き物を捧げる。
実のところ西から海を越えてやってきた一派はいると思っている。
ユダヤかどうかはわからないけれど。
一神教の人たちが多神教の神を奉ずるとは思えないので、秦氏景教徒はどうかな。
伊勢津彦とミシャグジ
伊勢津彦の逃走経路とミシャグジ・千鹿頭神の信仰がほとんど同じ地域に被っているらしい。
諏訪の神が洩矢神なら、諏訪から去った千鹿頭神の方が建御名方の可能性も?
75頭もの鹿を捧げる御頭祭、千鹿頭神。
年に75回行われる神事は建御名方を封じ込める儀式?
御穂須須美はどうしたのか。
信州まで御穂須須美を祀る神社があると言うことは、信州まではついてきたはずだ。
あるいは、御穂須須美は奴奈川姫の娘ではなく、三穂津姫そのものかもしれない。
建御名方の御名方も、宗像との関わりが疑われている。
とすると、その双方に台与の名が残っていることになる。
八島士奴美は越に残り、諏訪まで来たのは彼女だけなのか?
もしかしたら常陸にいる伊勢津彦を追って太平洋側に抜けようとしていたのか?
虐げられた神の子は台与なのか?
建御名方をすべて空想と断定するには、繋がりが見えることが多過ぎな気もする。
ただその繋がりがどんな風に絵を描くのかがよく見えない。
鹿と言えば鹿島、志賀島、安曇磯良も見えてくるが、鹿を殺すことに呪術的な意味合いがあるのかもしれない。
75という数字に意味があるのかもしれない。