見出し画像

そのへんのOLのカジュアルお遍路のすすめ 19 妄想編(徳島③)

残りのお寺は17あるけども、みんな徳島市内から近く、ステイできるので楽々のはず。
ところで徳島市は四国市内の他の県庁所在地よりも静かというか、閉店してる店が多いというか、商店街はシャッター街というか。

神戸や大阪に近いから、ちょっと足を伸ばして阪神地域に行っちゃうのかな?


21日目 徳島

第17番 井戸寺

徳島駅前からフジグラン石井行に乗り、井戸寺口で降りて歩けば着く。
なんとか寺口というのは大概山門から遠くて、そこからひたすら山道を登ることが多いのだが、井戸寺は市街地のお寺なので、井戸寺口は寺の山門から近かった。

井戸寺から大日寺までは9キロほど。この間に府中や国分寺などがあることから、この地域がかつて阿波の中心地だったことがわかる。
大日寺は一宮神社の真向かいにあり、一宮神社がかつては阿波国一宮だった。
井戸寺は国府に隣接して建てられた。
その名の通り井戸に関わる伝説が多い。

大師がその姿を映したという井戸は、のぞき込んで自分の姿が映れば息災が約束される。
映らなければ災厄に見舞われる。

写真正面が本堂なのだが、左に納経所があって、納経所に行く途中に日限大師がある。
日限大師は大師の井戸に映る姿を写して彫られたもので、日を限って参拝すると御利益があるという。日限大師の前に面影の井戸がある。

第16番 観音寺

井戸寺から観音寺までは住宅街を通る。
遍路道だが普通の街路だ。
細い道に立派な山門が突然現れ、驚く。

山門をくぐるとすぐに本堂がある。

かつての国府の中にあって、聖武天皇の勅願で建てられたとも、弘法大師が開基だとも伝わる。

右手に大師堂、左手には納経所と駐車場がある。小さなお寺だ。
天皇勅願のお寺(もしくは弘法大師建立のお寺)なので、かつては大きなお寺だったのだろうが、四国のお寺は大体が戦国時代に焼けて衰退している。ここもそうだった。
それに街の中心が移った。
かつて政庁があった場所は井戸寺と観音寺の間の大御和神社で、その頃はまさに街の中心だったが、蜂須賀氏が徳島城を建てて、現在の徳島市に中心が移った。
今は静かな住宅街で、かつての姿を思い浮かべるのは難しい。

第15番 國分寺

観音寺を出て國分寺に向かう途中から道は畑の中を通るようになる。畑や田んぼの真ん中は日陰がないから夏はキツい。

国道192号を渡るあたり、国分寺方面に曲がらず真っ直ぐ行くと、阿波史跡公園が気延山の傾斜に沿って広がっている。

國分寺に行く前にちょろっとそこに寄ったがそれは後で書くとして、阿波史跡公園まで行かない手前で曲がれば国分寺に着く。
逆打ちのせいなのか入口がわかりにくかった。

見えるのに、通行止めで入れなくて少し遠回りをして入る。
夏の暑さに乾いた場所だという印象があるが、庭園があり、有名らしい。

国分寺は天皇勅願の寺、国営のお寺なのでかつては壮麗だったはずなのだが、どの国分寺も時の流れ、戦乱や町の中心の移動などを経て、衰微し、消えたところも多い。

ともあれここで四国の国分寺を全て参拝した。

第14番 常楽寺

国分寺から距離は近いのだが、最後ぐいっとのぼる。
着いた場所はお寺と言うより岩山の上だ。地面が自然の岩のでこぼこのまま。
市街地からそんなに離れていないのに大自然でびっくりする。

本堂の前だけは平らなのだけど、納経所の前もでこぼこだ。

かつては低地に仁王門や塔、講堂をともなう大きな寺だったが、戦国時代、長宗我部元親の侵攻の時に焼け落ちた。その後再興の時に現在の岩山の上に移った。

八十八カ所を巡っていると長宗我部元親が焼いたお寺が多いことに気づく。
特に徳島のこのあたりは多い。

調べてみると、長宗我部元親は織田信長(さすがに織田信長くらいはわかる。戦国時代は苦手だが教科書程度の知識はある)と同時代の人で土佐の岡豊城に生まれた。

長宗我部氏は秦氏の系統で、伝説によれば信濃から土佐に移ってきた。家伝によれば兵庫から移ってきたことになっているようだ。

似た名前に香宗我部という氏族もあるが、同族で、移り住んだ土地の頭一文字を姓に足して区別したもののようだ。

すなわち、香宗我部は土佐国香美郡に住み、長宗我部は土佐国長岡郡に住んだ。

宗我部は宗我郷に住んだことにちなむが、秦氏は蘇我氏の配下にあった(とすれば聖徳太子信仰を作ったのもわかる)ため、蘇我氏の部民である宗我部を名乗った可能性もある。

そんな長宗我部の家に戦国時代のさなか生まれた元親は、少年時代まで優しく穏やかな性格だった。

初陣の時に功を上げて、以来家臣たちの信頼が篤くなり土佐国を快進撃で統一することになった。

元親には異母弟がいた。島弥九郎と言ったが、彼は病を得て、兵庫の有馬温泉に行くことになった。船は黒潮に乗って、東に向かい、淡路と紀伊の間を抜けて兵庫に上陸するのが当時の道程だった。

春三月、出航した弥九郎だが、嵐に遭い、那佐に避難する。

那佐は阿波海南駅から海に出たところにある。和那佐意富曽神社が元あった場所だ。

ところがそこで海部氏の急襲に遭う。
海部氏は長宗我部に恨みを抱いていた。

この報を聞いた長宗我部元親は、海部氏を討つべく兵を動かした。
海部氏は阿波の三好氏の家臣であった。
三好氏は内紛と織田信長との戦いで疲弊していた。
長宗我部元親はこれを好機ととらえ、阿波に侵攻していく。

島弥九郎の死が天正3年。
四国平定はその十年後、天正13年。

八十八カ所を巡る時、長宗我部元親の侵攻で灰燼に帰した、天正の兵火により焼けた等の寺史があれば、すべてこの間の戦いになる。

その後、長宗我部元親は豊臣秀吉に臣従し、阿波国は蜂須賀正勝によって治められることになる。
蜂須賀正勝は吉野川流域でなく、現在の徳島市に徳島城を築いた。
以後阿波の中心は徳島城下に移り、かつての中心地だった国府のあたりはさびれていくことになる。

ここにあった壮麗な寺院群は戦火後、かつての栄華を取り戻すことはなかった。

常楽寺もその一つだ。このあたりは中心だったので、みな同じ理由で焼けている。
当時の寺は武力を持っていたことも戦火で灰となった理由だろう。

もっと早く調べればよかった!
戦国時代、面白いかもしれない。

いやいや、でも、果てしないんだよね……。戦国時代。
戦国大名だけでもいっぱいいるし、その家臣までとなると、とても把握しきれない。エピソードも多いし、私の頭はそこまでキャパはない。

第13番 大日寺

常楽寺から大日寺は歩いていくことになる。バスを待ったら一日が終わる。

常楽寺のある岩山を下っていくと、鮎喰川沿いの道に出る。右に曲がるとすぐに橋で、橋を渡ると畑の中の道を川沿い、上流に向かって歩いていく。
橋から10分ほどで大日寺に着く。
周りには遍路宿もある。
順打ちならば一日がかりで参拝する焼山寺の次になるためだろう。

門前には神社がある。神社の背後には山がある。
門前の神社の名を一宮神社といい、一時はここが阿波一宮になっていた。
大日寺は一宮神社の別当だった。

本堂と大師堂は山門と直角向かい合っている。
ベンチがあって休めるようになっているのは、焼山寺から来た人のためかしら。

背後の鮎喰川の上流に焼山寺がある。
焼山寺の登り口(順打ちだと降りたところ)の神山町には、上一宮大粟神社がある。
そこが本来の一宮だ。

天石門別八倉比売神社

天石門別八倉比売神社は、現在は気延山の中腹にある。

気延山と言っても、市街に面した方は公園になっている。阿波史跡公園だ。古墳や古城を抱え、考古資料館もあるが、公園としてはどうだろう。座ってご飯でも食べようとベンチを探したけど、よさげなところにはベンチがなく、休憩所もなく、炎天下で休めるところもなくて、史跡を見に来るのならいいのだけど……。

という場所なのだが、私の目的地は公園の中、上の方、天石門別八倉比売神社なので問題ない。

国分寺に行く途中、シャッターを押した場所あたりを左に曲がると国府寺なのだが、八倉比売神社に行きたいので真っ直ぐ行く。

公園の端を掠めまだ上る。
木立の間を上る。
かなり上ってもまだ上る。
やっとたどり着いたかと思ったら、壊れかけた長い階段があり、その上が八倉比売神社だ。

八倉比売とは誰か。
大宜都比売のことだと、阿波には伝わっている。
四国は二名四面の島で、女神の島でもある。
二人の女神と、その対になる男神がそれぞれの国に祀られている。
伊予は愛比売、讃岐は飯依比古。阿波は大宜都比売、土佐は建依別。
愛比売は兄姫なので大宜都比売が弟姫だ。
大姫ならば稚姫だ。
八倉比売は大宜都比売の別名という。

天石門別八倉比売神社に古文書が1つ伝わる。
「八倉比売大神御本記」という。
この古文書は八倉比売が阿波に鎮座するまでを描いた物だが、使う単語の幾つかが不穏で、神社はこのような解釈をしている。

天照大神のお葬式!

面白いので、「八倉比売大神御本記」を読めないかと探すと、web上で公開されているサイトが2つ見つかった。

原文に引導(仏教用語の葬式)とあるので葬儀の模様と解したようだ。

仏教用語が入っていることから成立は6世紀以降、最古の記録は19世紀頭なのでそれ以前の成立と思われる。

偽書という説がたぶん一般的(一般的と言うほど「八倉比売大神御本記」は有名じゃないのだけど)なのだけど、いつの時代に作られたものから偽書と言えばいいのか、各神社の社伝を見てきた私には迷うところだ。

記紀になくて地元に都合がよければ何もかもが嘘だというには、遠隔地で共通することが多すぎる。

ただこの気延山の天石門別八倉比売神社を古来からの神社とすると、いつからここにあったのか、その伝説の元の形は何だったのかが気になる……。

一宮神社

そんなことを思いながら大日寺の後、一宮神社に立ち寄った。
こちらでは八倉比売は大宜都比売であると断言している。

かつてこの一宮神社が一宮だったのだが、阿波国一宮だったと思われる八倉比売を祀る神社の名は天石門別八倉比売神社だ。延喜式に記載のある神社名はそれになる。
一宮神社から気延山の天石門別八倉比売神社の間には、山裾に常楽寺を抱える辰ヶ山がある。直線距離で1.5キロほど、道のりで3キロほどだ。
ならば背後の山の一宮城で統治した一宮氏が便利なところに一宮を移動したのかというと、それはそうなのだが移動元が違う。

移動元は鮎喰川の上流にある上一宮大粟神社という。上一宮大粟神社には、大宜都比売が阿波に粟を伝えたという伝説がある。

上一宮大粟神社は明治になってから埴生女屋神社と名を改められたが、この埴生女屋が誰なのかと言えば、

この方すごい、たくさん調べておられる。

下照姫だと!?
大宜都比売の娘が下照姫じゃなくて?
ただ、丹生都比売神社と伊射波神社と伊雑宮と阿波が大宜都比売であることには何か関わりがあると思っていたので、興味深いものがある。
世の中には邪馬台国徳島説というのがあって、めっちゃ叩かれてるみたいなんだけど、邪馬台国はともかく、卑弥呼の妹や姪には非常に縁が深い国だと思うのよな。

稚日女は卑弥呼の妹なのはまず間違いないと思ってるのだけど、大日女の死去の時まで生きていないので、もし八倉比売が大宜都比売ならば、大宜都比売は稚日女ではなく稚日女の娘の阿加流姫ということになる。
それはあり得るのかと言うと、丹生都比売神社で大宜都比売を気比から呼んだという記述があることや、豊受女神に食物神の属性があることを考えるとあり得る。

とすると須佐之男が大宜都比売の体を裂いた神話は大宜都比売ではないのか。
日本書紀では月読がウケモチの神を殺している。
月読は須佐之男なんだけども、ウケモチは丹波では豊受として祀られている。
モチは大日孁貴の貴や大己貴の貴と同じで尊称だから別の神と考える方がおかしい。
この神話自体は、よくある神話体系が差し挟まれただけと言うことなのか?

豊穣の女神が殺されて、そこから食べ物が生まれる話は環太平洋に伝わっていて、文化人類学的にはハイヌヴェレ系神話と言われる。

それにしても記紀双方で須佐之男が豊受女神を斬り殺したことになるのでやはり何か歴史は反映してる気がするなあ。

これは一宮神社の元社も行ってみるしかない。

一宮神社の元社、上一宮大粟神社は神山町にある。
神山町は焼山寺の最寄りバス停のあるところだ。
これは行くしかない。

しかし、もし行くなら時間を取りたいから、焼山寺はタクシー往復かな。
予算はあるのか!?

以下続く。

いいなと思ったら応援しよう!