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神宝のゆくえ①

布都御魂は今石上神宮にある。
もとは吉備の山間にある石上布都御魂神社の奥宮の石の上にあったという。石上の名の由来は布都御魂のあった場所だし、石上神宮の主祭神も布都御魂だ。


石上布留社

伊香色雄が奉る

石上神宮の社伝によると、石上神宮が作られたのは大神神社や大国魂神社が作られたのと同じ時、ときの大臣物部の伊香色雄が勅命で石上神宮を作り、布都御魂を祀ったという。

日本書紀では、五十瓊敷入彦の代までは天皇家が管理していたことになっている。五十瓊敷入彦が石上で管理をしていたが、老齢のため娘に管理を譲ろうとすると、体が弱いので物部十千根に管理を任せた。以来石上は物部が管理するようになったという。

五十瓊敷入彦は垂仁天皇の子で景行天皇の同母兄になる。
何故兄なのに弟の方が天皇になったかと言えば、なりたいと言ったのが垂仁天皇の方だけで、五十瓊敷入彦は武器を欲したそうだ。そのため、武器を与えて、その保管庫として石上に繫がる。
そう言えば古代日本は末子相続だったのではないかという本を昔読んだが、どうも末子相続でも兄弟相続でもなかったようだ。

五十瓊敷入彦については、石上布都御魂神社のことを考えると石上神宮社伝の方が正解に近い気もする。日本書紀で語られる物部十千根は出雲に神宝検校に行った人物だ。
その出雲神宝が何なのか、どうなったのかわからないが、それが布都御魂だったと考える方が自然だ。
石上布都御魂神社に安置したので天皇家には献上してない。

ところでこの出雲神宝を欲したのは実は垂仁天皇ではなくて崇神天皇で、崇神天皇の時代も同じように神宝を献上させている。
献上させに行った人物は建諸隅だ。
崇神天皇の出雲神宝献上と垂仁天皇の出雲神宝検校はおそらく同じ事件で、尾張建諸隅と物部十千根が同じ人物かどうかはわからないが、この二人が出雲神宝に関わったことと、尾張氏と物部氏の祖が天火明(饒速日)になっていることは、おそらく無関係ではない。

石上神宮はまたの名を布留の社という。布留は出雲振根のフルだろうか。

その出雲振根は出雲国造氏の系図にいる。

神門臣と出雲国造

出雲国造氏は、天穂日の子孫を名乗っている。
松江の熊野大社が氏族の奉る社であることから、出雲東部を支配していた豪族だろうという。出雲東部は早い内に前方後円墳が出現し、大和朝廷との関わりが強かったと見られている。
宍道湖の東の出雲国造氏に対して、西には神門臣がいた。
出雲西部は出雲大社や荒神谷遺跡のある地区で、土師氏や日置氏もこの地域だ。古墳時代に入ると西谷に古墳を作っていた一族が突然消える。日置氏、土師氏、神門臣の娘が大田田根子の妻であることなどを考えるに、大和に移住したのではないかということも推測できる。
国譲りの舞台はこの出雲西部だ。

再び古墳が作られるのは、東部で前方後円墳が現れるのと同時期の4世紀後半で、丁度応神天皇の時代になる。

その後活発に古墳が西部地域で作られるのは5世紀中ごろからで、欽明天皇の時代になる。
出雲国風土記に言う、日置氏が出雲の統治を任されたという時に符合する。

考古学の立場からは、何らかの理由で出雲西部から王族が去り、そこに東部を納めていた出雲国造氏が大和朝廷の力を背景に(※出雲東部では前方後円墳が活発に作られ、それが大和朝廷の影響力の証明とされる)力を伸ばして侵入してきたのだろう、という。

出雲神宝を持っていたのが西部の王族として、それを東部の王族である出雲振根が持っていたのはそれが理由だろうか。

ただ、美保神社のある地域、八島士奴美の支配地域、須我神社のある地域、八束水も出雲東部だ。
何故出雲東部の神々が出雲西部の杵築(出雲大社)に祀られるのか。
何故出雲東部の出雲国造氏が出雲西部で祭事を司るのか。
出雲振根は大和朝廷とは対立していて、出かけている先も九州だ。

出雲が東部と西部で支配者が違っていたという事実を知ると不可解なことが多すぎる。

天叢雲剣と十握剣

出雲の古代史についての謎を解明するほどには精通していないので謎は謎のままとして、とりあえず出雲神宝の資格のある二つの剣について整理しよう。

十握剣

十握剣が布都御魂でハハキリで大量(おおはかり)で伊邪那岐がカグツチを斬った剣、全部同じ剣で、これが阿遅鋤高日子根の鋤の由来、豊鍬入姫の鋤の由来、佐比持の佐比(鋤)の由来、胸鉏姫の鉏の由来となる。
最初の持ち主は伊邪那岐で、次が須佐之男だ。この剣で八岐大蛇を斬った。
次が、稲氷命が脱解ならば脱解か。その次が天香語山。そして神武天皇。神話伝説の使用者はここまでになる。

八岐大蛇を斬った時に、八岐大蛇の中にあった天叢雲剣に当たって欠けている。

その後、石上布都御魂神社に安置され、今は石上神宮にある。

石上神宮の禁足地から明治7年にそれらしい剣が発掘されたので今はそれをご神体にしているようだ。
発掘時のスケッチが残っている。

「石上神宮宝物誌」(昭和5年)より

確かに内反りの内刃だ。
無床犂から来た名前かしら。

ところで十握剣はそれだけ珍重されているので鉄剣だとばかり思っていたが、出土の記録見ても材質書いてなかった。
天叢雲剣とぶつかって欠けているので(よく見るとスケッチも欠けている)青銅剣じゃないかと言う説があるようだ。
天叢雲剣がたたら製鉄の国産で、十握剣が農具か何かを改造した鋳鉄だったら、鉄同士でも負けそうだけど。

天叢雲剣

天叢雲剣は八岐大蛇の尾から出て来た剣の名前だ。尾張氏に天村雲という名の人物がいて、別名を天五多底というのだけど、父の名が天香語山だ。
天稚彦が持たされてる弓に天鹿児弓という弓があって、天羽羽矢をつがえるのだけど、ハハだし尾張氏の祖先は武器の名前だし、しかもその武器尾張氏に関係ないし、普通おかしいと思うよね……。

それはともかく尾から何故剣が出て来たかと言うと、この神話は何々を意味するとか解釈する一派がいて、それによると八岐大蛇は斐伊川、天叢雲剣は斐伊川上流の砂鉄を意味するという。だから斐伊川は砂鉄の錆で赤くて火の川だと呼ばれたのだ。
多分この説が一般的で、ほとんどの人が信じていると思う。
だとすると天叢雲剣は国産の剣と言うことで、もしかしたら第一号で、王家のレガリアにふさわしい。
その後、須佐之男は天照大神にこの剣を献上し(いつ和解したんだ? 和解したのに国譲り?)、天照大神は瓊瓊杵尊の降臨の時にこの剣を渡して降臨させたという。
つまり神武天皇の佩剣のはずだが、神威あらたかなこの剣は全然土地神の呪いを断ち切れず、この剣より弱い十握剣でやっと呪いから覚めたというエピソードになる。神武天皇の佩剣が天叢雲剣だとはどこにも書いてなかったと思うが。
別名を都牟刃の太刀とも言う。都牟(つむ)は紡錘で紡錘型の両刃の剣ではないかと思うがどうだろう。丁度古代の出土品の太刀はみんなそんな形をしている。

その後、宮中にあったが、鏡とともに彷徨い伊勢に移されて、倭姫が持っていた。
ヤマトタケルに貸し出され、ヤマトタケルは返さないまま尾張国造の元に預けて、そのまま死する。
ヤマトタケルの故事(焼津で焼け出されたときに草をなぎ払って道を作った)から草薙剣と呼ばれるようになった。

時代はずっと下って天智天皇の頃、西暦668年に、何故か新羅人が草薙剣を盗み出す。
そこで宮中で保管することにするが、さらに時代がくだって天武天皇の時代、西暦686年に天武天皇が祟られる。草薙剣の祟りだとわかり、尾張氏のもと、熱田神宮にまた安置されるようになった。

ちなみに安徳天皇が持ったまま海中に沈んだ草薙剣は形代だ。天皇家では祟られるので熱田神宮にあるので、本物に触れられるわけがない。

ちなみに鏡が伊勢にあるのも、崇神天皇を祟ったからだ。

何故神武天皇は祟られなかったのか、何故ヤマトタケルは祟られなかったのか、何故天皇家は祟られるのかを考えると面白い。
一体誰の祟りなのか。

たたら製鉄

八岐大蛇の神話の舞台となった斐伊川の上流、奥出雲では、中世から近世にかけて盛んにたたら製鉄が行われた。

鉄は、鉄鉱石のみでは強い鉄にならない。一定量の炭素が必要で、そのため溶かすときに木炭と一緒に重ねて溶かす。
この錬鉄には強い火力が必要で、鞴を使って空気を送り込んだ。この仕組みを蹈鞴という。
燃やすためと錬鉄のための木炭で大量の木材を必要としていて、この製鉄法は弥生時代に南から渡ってきたのではないかと言われている。朝鮮半島経由だと木材が足りない。
ただまだ研究途上だ。

奥出雲でのたたら製鉄は5、6世紀頃まで遡れると言うことだ。
たたら製鉄とともに鉄穴(かんな)流しをするのだが、その土砂で斐伊川の川床が上がり、水害をもたらす。それで川の流れを変えて元は西の日本海に流れ込んでいたのを宍道湖に流すようにした。
そういう歴史を鑑みて、5、6世紀と言うことだ。
だとすると天叢雲剣は奥出雲産ではないことになる。
5、6世紀というと、丁度日置氏が出雲に入った頃か?
出雲西部に古墳がまた出来はじめた頃。
八岐大蛇と斐伊川と奥出雲の神話はそれ以降に作られたものだ。

だが、草薙剣は実在する。

八岐大蛇は天豊足柄姫と八束水臣津野の八色蛇退治が元ネタのような気もする。
八岐大蛇は越から来たという。
ちなみに越にあるのは玉の産地で、鉄は関係ない。古代の鉄は吉備と出雲に集中する。

ちょっと長くなったので分ける。

その②に続く

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