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君が代のきみ

国歌君が代の話ではないので天皇陛下万歳の人と天皇制に疑問の方は期待外れの記事になる 汗

君が代の君が誰かについては最後の方に出てくるが、主に神功皇后についての話で、三韓征伐が何故行われたかについても阿加流姫と絡めて考察していこうと思う。


神功皇后の船出

神功皇后の出立は敦賀から始まる。
神功皇后はヤマトタケルの子の仲哀天皇の皇后で、夫とともに九州征伐に出向くところから始まる。何故か九州までの旅路は夫と別行動だった。

穴門豊浦宮

合流したのは穴門――今の山口県で、旧国名長門は穴門から来ている――でそこに宮を築いて九州征伐の準備をした。
宮の名は豊浦(とゆら)。後の推古天皇の宮と同じ名だ。推古天皇の豊浦宮は奈良の明日香村だが。

九州に渡る道が少し面白い。

迎えたのは遠賀川の豪族熊鰐(わに)で、天皇を迎える時、白銅鏡、八尺瓊、十握剣を船の艫にかけて、周芳の沙麼で迎える。

穴門豊浦宮は下関市の忌宮神社に比定されるのだが、わざわざ防府市まで戻るのが不思議な経路だ。

出迎えた熊鰐は、天皇と皇后に御料地を献上する。
それが穴門から向津野大済の土地、穴門から名籠屋大済の土地、没利島、阿閉島、柴島だ。

向津野大済

向津野大済には二説ある。
宇佐の向野と、長門市の向津具だ。
地図上で見れば、向津具から関門海峡までを献上したと考えた方がすっきりはするのだが、熊鰐が出迎えているのは防府市だ。
宇佐の向野(古名を向津野)は周芳の沙麼にあり、案内をしながら熊鰐が遠賀川河口までたどったという記事に従えば、宇佐の向野の方が自然な気がする。

ここで御料地をささげられたから、宇佐に神功皇后が祀られることになった、と考えると、非常に筋が通る。

伝説によると、関門海峡はこの時に神の加護により通じたもので、それまでは下関と門司は陸続きだったとも言う。

陸続きならば熊鰐はどうやって船で防府まで行ったのかなど突っ込みどころはあるが、穴門の名の由来もその陸続きにある。海流は地下を通っていた。地下の穴から穴門の名が出来たのだと。
今現在も関門海峡は船の難所で、急流によって海底に堆積する土砂のために船が航行できなくなるため、浚渫工事が行われている。
歴史上でも確かに陸続きだったことはある。
紀元前4000年なので、神功皇后の時代からは大分遠い。

五十迹手

名籠屋大済の対岸、引島では伊都県主の祖五十迹手が同じように白銅鏡、八尺瓊、十握剣を船の艫にかけて天皇・皇后を迎えた。

同じ事柄が筑後国風土記逸文にもある。
風土記では五十迹手が生まれを語っている。

怡土郡
筑前國風土記日怡土郡昔者穴戸豊浦宮御宇足仲彦天皇将討球磨噌唹幸筑紫之時怡土県主寺祖五十跡手聞天皇幸抜取五百枝賢木立于船舶鱸上枝挂八尺瓊中枝挂白銅鏡下枝挂十握劔参迎穴門引嶋獻 之天皇勅問阿誰人五十跡手奏日高麗國意呂山自天降來日桙之苗腹五十跡手是也天皇於斯譽五十跡手曰恪乎謂伊蘇志 五十跡手之本土可謂恪勤國今謂怡土郡訛也

五十迹手は自らを天日槍の子孫と名乗っている。

岡の港で一息ついた後、仲哀天皇と神功皇后は那の津に向かう。

香椎廟

神がかり

那の津にたどり着き、そこに宮を建てる。その宮の名を香椎という。

その地で神功皇后が神懸かりをする。

神懸かりをされた人間は神が乗り移っているためどの神が降りたのか口にすることが出来ない。神を判じるのは側にいる人間で、それを審神者(さにわ)と言う。
さにわは清庭(さやにわ)で神の降りる斎庭(ゆにわ)のことを言う。
(余談だがこの斎庭の読みを変えたのが私の筆名yubaの由来だ)

皇后の神がかりは熊襲よりも海のかなたにもっと素晴らしい宝の国がある、そちらを攻めよというものだった。

この後仲哀天皇が信じず、神の怒りに触れて亡くなってしまう。
古事記・日本書紀で微妙に流れが違うが、おどろおどろしいのは古事記の方だ。

其大后息長帶日賣命者當時歸神故天皇坐筑紫之訶志比宮將擊熊曾國之時天皇控御琴而建內宿禰大臣居於沙庭請神之命於是大后歸神 言教覺詔者西方有國金銀爲本目之炎耀種種珍寶多在其國吾今歸賜其國爾天皇答白登高地見西方者不見國土唯有大海謂爲詐神而押退御琴不控默坐爾其神大忿詔凡茲天下者汝非應知國汝者向一道於是 建內宿禰大臣白恐我天皇猶阿蘇婆勢其大御琴爾稍取依其御琴而那摩那摩邇控坐故未幾久而不聞御琴之音卽擧火見者既崩

天皇が琴を弾き、建内宿祢の大臣が沙庭で神の言葉を受けることになった。
そうすると皇后に神が依りうつり、
「西の方に国有る。金銀のほか、さまざま珍しい宝がある。その国に行きなさい」
と言った。
天皇はそれに答えて、
「高いところに登って西の方を見たが国土は見えなかった。唯大海有るのみだ」
と言い、この神は嘘を言う神だと思って琴を押し退けて弾くのをやめた。そうして黙った。
神は大変に怒って、
「お前はこの国を治めるのに相応しくない。お前の道は別の道だ」
と言った。
建内宿祢大臣は言う。
「かしこみて申し上げます。我が天皇よ、琴を弾いてください」
そうすると天皇は琴を取りしぶしぶ弾いた。少しすると琴の音が絶えた。火を挙げて見てみると、天皇は既に死んでいた。

怖っ。

古代世界、音は精霊や神に通じるものであった。
ブルロアラーという木片をロープに振り回して音を立てる楽器があるが、太古の昔はこの音が神や精霊の声とされた。
銅鐸も舌があり、もとは鐘でそのリィンロォンという涼やかな音が神に届く音だった。
現代日本でも魔を祓う鳴弦という儀式がある。弓の弦を弾いて鳴らすものだ。
琴の音は神を呼ぶ音なのだ。

そうして天皇が亡くなったために神功皇后は女性の身ながら男装して海のかなたの金銀宝の国に向かう。
それが三韓で、新羅が主な敵となる。

三柱の神

ところで仲哀天皇の殯の様子が書かれているのだが、それが須佐之男が高天原で犯した大罪そのもので面白い。その末に稚日女は亡くなり、天照大神は岩戸に隠れる。やはり天岩戸の神話は天照大神の葬儀だったのだと思う。(その点に関しては、天石門別八倉比売神社の見解は正しいと思う)

仲哀天皇を殺した神はその後名乗られる。
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
尾田吾田節之淡郡所居神
天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神
の三柱の神だ。
二番目の神だけ正体が知れない。淡郡から大宜都比売、稚日女説と、吾田節から経津主説がある。

そう言えば国譲りと神宝検校とヤマトタケルが同じ事件だと推察したが建御雷と経津主が誰かはまだ記事にしていない。

いずれにしても阿加流姫関係の神様三柱だ。
神功皇后の動向は阿加流姫の伝説をなぞるように展開していく。神社も阿加流姫なのか神功皇后なのか判然としないことがよくある。
同一人物なのではなくて――百年ずれているので――神功皇后が故意になぞったか、後の人が故意に重ねたかのどちらかだとは思う。
ここにこの三柱の神が出て来たことで、神功皇后が故意になぞっている説を採りたい。

さらにいるか、と審神者が聞くともう答えられないと憑坐たる神功皇后は言う。
今答えられず後で答えられる神はいるかと聞くと、住吉三神の名が上がった。
これらの神が神功皇后の三韓征伐の守り神となる。

三韓征伐

天日槍の末裔

ところで下関で神功皇后を迎えた五十迹手は天日槍の末裔だと名乗るが、神功皇后も天日槍の末裔だ。

息長帯姫が神功皇后だ

母方が天日槍に公然と繋がるが、父方の日子坐も……。
祖先であるからこそその足取りをたどり、敦賀に滞在し敦賀から出発し、また後の応神天皇も敦賀で養育した。応神天皇は敦賀の気比の大神と名を交換した伝説もある。

神功皇后の生まれは近江だともっぱら言われる。息長氏が近江に集住しているからだ。
しかし皇后になってすぐに仲哀天皇と別居して敦賀に住み、合流するや天皇が謎の死を遂げて、三韓征伐の後、仲哀天皇の皇子たちを討伐に奈良まで攻め上がる神功皇后は、本当に皇后だったのかと。
応神天皇が仲哀天皇の死後三年してから生まれているので、そもそも天皇家の血を継いでいなさそうだが、そういう無茶を込みで天皇家に繋げるために後に改変されたのではないかと。

記紀を素直に読むとそう考える人も多いと思う。

それが正解だと思う。

ただし、奈良が正統なのか、九州が正統なのか。

台与と神武天皇が奈良を去った後に、もしかしたら血縁かもしれないしどこぞの王だったかもしれない、それなりに権威のある人々やその配偶者が奈良で治めたのだろう。

神武天皇の方は横死したのだろう。

台与は、天日槍と結ばれている節がある。
大物主とその妃の伝説、長尾神社、竹野神社、出石神社。
その末裔が神功皇后ならば、神功皇后の方が正統な王家ではないだろうか。

神功皇后が天日槍と阿加流姫の子孫だと推測する大きな理由が、三韓征伐だ。

阿曇磯良

阿曇磯良が文献に出てくるのは14世紀のため、その頃に創作された人物ではないかと言う人もいる。
一般には阿曇氏の祖神と言われるが、系図にはこの名はない。
神功皇后が新羅に出立する時に先導を務めた神だ。

また、冬至の前夜の鎮魂祭で歌われる神楽歌に出てくる阿知女も阿曇磯良のことであると言うがその阿曇磯良が何者かの解説が全くない。

別名を磯武良(いそたけら)というので五十猛じゃないのかと思ってはいる。
なお、阿曇磯良=住吉三神で、=鹿島大神だそうだ。
阿知女が阿曇磯良だというので、それだと閼智の天日槍の気がするのだが。
とふと思いつくが、天日槍だろうと思われる、天稚彦と阿遅鋤高日子根や三毛入野と天香語山は途中で入れ替わる。
十握剣の持ち主も、脱解だったと思われるが天香語山に入れ替わっている。
途中で後事を託されて天日槍が入れ替わった?
それが裏切りとして神話に描かれている?

そんな謎に包まれた阿曇磯良だが、君が代の君は阿曇磯良だったと思われる。

志賀海神社の神楽歌がある。

君が代は 千代に八千代に さざれいしの 巌となりて 苔のむすまで
あれはや あれこそは わが君の御舟なり うつろうがせ 身骸に命 千歳という
花こそ咲いたる 沖のおんづの 潮早にはえたらぬ つるおにくわざらぬ 潮は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば いくよへぬらむ 香椎路に向いたる あの吹き上げの浜 千代に八千代まで
今宵 夜半につき給う 御船こそ たが御船なりけるよ あれはやあれこそは 阿曇の君のめし給う 御船なりけるよ
いるかよいるか 潮早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな

君が代の君は阿曇の君なのだ。
神功皇后が三韓征伐にゆくときに、志賀海神社が神事を奉仕した。そこで神功皇后がこの神事を後まで続けよと言った、その神事たる山誉め祭で歌われる。

なお志賀海神社は8世紀まで文献を辿れる。そもそも文献自体が8世紀までしかないのでそれ以前はどの神社も辿れない。

正統なる王

神功皇后が奈良に攻め上ったのは、神功皇后こそが正統な王であると自負していたからではないかと推測しているが、三韓征伐――と言っても新羅メイン――もまた動機は同じではないかと思う。

その頃の新羅は金閼智の子孫を名乗る(※僭称だろうと言われている)一族が王権を継いでいた。

神功皇后が阿加流姫と天日槍の子孫ならば、金氏の王統は神功皇后こそが正統となる。
しかも金閼智の妃は脱解の妹、赫居世の娘となれば最強ではなかろうか。

この頃の倭が頻繁に新羅の海岸を侵略していたことは、朝鮮側の史料にも描かれている。
むしろ、記紀には書かれていないがこの前も後も侵略している。
もしかしたら九州と奈良の2朝並立、それも神功皇后の時代までは九州正統だったのでは。
なんか、九州説支持のきっかけになった古田武彦に戻ってきた気がする。
邪馬一国はもはやないと思っているけれど。

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