見出し画像

烏賊と羽衣

ほぼほぼシリーズに関係ない話で恐縮だが、縁日ではイカが大好きだった。
イカ飯も好きだ。イカバターも好きだ。スルメイカも好きだ。イカリングなんか好物だ。
ただ、内臓が苦手なので、ホタルイカはちょっと苦手だ。
私にとってはイカは夕食のおかず以外の何物でもないので、阿加流姫を調べていた時に烏賊が出てきたときは、なんで? と思ってしまった。


由良日女

烏賊寄せの浜

隠岐の一宮由良比女神社の祭神由良日女にはこんな伝説がある。

由良日女神社の前に広がる浜は浅く、その海中には鳥居が立っている。
昭和20年代ごろまで、ここには冬になるとイカが押し寄せ、手でつかみ取りすることも簡単にできたそうだ。
それでイカ寄せの浜と呼ばれていた。

神話時代のこと、遠い国から由良日女が海を渡っていた。由良日女命が苧桶で手で水をかき分けながら進んでいると、イカが姫の手をたわむれについばんだ。
以来、イカはこの無礼を詫びるために、12月から1月にかけて、由良日女神社の浜に押し寄せるようになった。
それは神武天皇の頃だともいう。
また由良日女は別名を、須勢理姫と言う。

神社が知夫里島の鳥賊浜から、西ノ島に移動すると、イカの群れも烏賊浜ではなく、新しい由良日女神社の浜に集まるようになった。

烏賊寄せは現代にもまれにおこり、直近では平成18年に烏賊の大群が由良日女神社の浜に押し寄せた。
何故烏賊が浜に上がるほど押し寄せるのかは解明されていない。

余談だが、美保神社のある美保関でも烏賊が名物で、境港の烏賊の麹漬けはコクのある塩辛過ぎないイカの塩辛という感じの食べ物で、大変においしい。

渡しの神

由良日女の別名はまた渡しの神ともいう。海を渡ってきたからだ。
この由良日女が須勢理姫だというところで、答え合わせが出来た! で話は終わってしまう。
須勢理姫が天火明で、天火明が豊受女神で道主貴で、阿加流姫。
下照姫で三穂津姫。全部繋がって終了だ。
一つだけの社伝では記紀と同じで、不確かすぎて信じることができない。
だけれども、ここまでつながるならば、少なくともいつかの時点ではこれらの神々は同じ神だったはずだ。

いつかの時点がいつかと言えば、疑えるのは、

  • 応神天皇の時代

  • 雄略天皇の時代

  • 欽明天皇の時代

このあたりになる。阿加流姫を追いかけている時、この三人の天皇が、もうなんというか、偶然にしては多すぎなくらい出てきた。
この三人の時に祭祀が確定しているのは間違いないと思う。

私は少なくとも、蘇我氏が作った国記・天皇記の頃までは、台与の神話が伝わっていたのではないかと疑っている。

坂戸由良都姫

由良日女と同じ名を持つ姫が三上氏の系図に出てくる。三上氏の系図は、息長大姫刀自が出てくる系図だ。
三上氏は物部氏や鴨氏と通婚している。

系図

三上氏、賀茂氏の系図を再掲する。

賀茂氏関係系図

この系図の左側下から3段目に坂戸由良都姫がいる。

尾張氏・物部氏系図

この系図で言えば左側、物部氏の最上段、鬱色雄の伴侶が坂戸由良戸姫になる。

由良とは、意味不明ながらも何名も同じ名の姫がいて、離れた地域で同じ地名もあることから、古代語の普通名詞か形容詞だろうと言われている。揺り上げるの揺りから由良になったのではないかという説が大元だ。何が揺り上がったかというと砂で、川砂や海流で砂が溜まり、陸地になったことを揺り上げると言ったのではないかという。
地名は由良日女神社の由良と、由良川の由良だ。

由良川は舞鶴の西に流れる川で、この地域は由良川流域が最も早くに開けたと言われる。上流、福知山で丹波道に交わる。

坂戸はどこ

坂戸由良姫が由良川に関係あるかと言えば、実は由良川流域には坂戸という地名が見当たらない。
かろうじて大阪の古市のあたりに坂門という地名がある。古市古墳群のあたりの古名が坂門原という。古市古墳群には、伝応神天皇陵や伝仲哀天皇陵、白鳥陵(ヤマトタケルの墓)などがある。

おばが新河小楯姫であり、三上氏は御上神社の神官。琵琶湖畔、野洲川流域にあればそれはそれでと思ったがそこにも坂戸はない。
夫の鬱色雄は、ウツ、つまり紀氏の高官の名を持っている。古代の音はタ行はすべてT音で、chiやtsuの発音ではないため容易に転訛する。

欠史八代の系図は圧縮されるため、繰り返される、と言うのを尾張氏で見たが、物部氏の場合、血縁ではない同盟関係にある氏族の系図をつなぎ合わせたのではないかと思えてくる。

この坂戸由良都姫も欠史八代に入る姫であるため、繰り返しかどこかから持ってきたのかもしれない。
由良日女と同一人物の可能性すらある。
三上氏は記紀には出て来ないため、検証が不可能だ。
鬱色雄が、須佐之男に葦原醜男と呼ばれた大国主である可能性もないではない。
甥姪に伊香色雄と伊香色謎がいるが、この伊香は五十河(いかが)と思われる。
五十河は、丹後の籠神社の背後の山、成相山の真裏にある地域だ。
由良日女を追っていると何故だかイカがあちこちに出て来る。
隠岐から丹後は、距離の割に海流があるため近い感覚だったようで、古代から交流の跡が残っている。

中臣烏賊津臣

近江国、琵琶湖の北東端に余呉湖という小さな湖がある。

もう一つの羽衣天女

その昔伊香の小江(現在の余呉湖)に八乙女が白鳥の姿で舞い降り水浴びをしていた。
それを西の山から伊香刀美(いかとみ)という男が盗み見て、これは何の怪異か、あるいは神人かと怪しんだ。よくよく見ると神人のようだった。
見ているうちに彼は乙女に恋心を抱き、白犬をけしかけて天の羽衣を盗み取らせた。
姉たち七人は羽衣をまとって空へ逃げたが、一番下の乙女は羽衣がなく逃げることが出来ず、地の人となった。
そして伊香刀美との間には二男二女が誕生した。
男の子の名を意美志留(おみしる)、那志登美(なしとみ)、女の子の名は伊是理比咩(いぜりひめ)、奈是理比賣(なぜりひめ)と言った。彼らが伊香連の祖となる。
後に天女は羽衣を取り戻し、天へ帰って行った。
残された伊香刀美は空を見ては嘆きの歌を詠んだ。

神功皇后の頃

仲哀天皇が神の怒りに触れて突然に倒れたときに、その死を確認し、死を隠す触れを出したのが中臣烏賊津臣と言う。別名を雷大臣とも言う。また烏賊津臣は神功皇后の審神者でもあった。
この烏賊津臣が余呉湖の天女伝説の伊香刀美かというと、違う。
中臣氏の系図を遡っていくと、伊香津臣とその子梨津臣がいる。兄弟に臣知人、伊世理などがいる。臣知人の子孫が伊香連である。伝説の伊香刀美は中臣氏の系図上にいる人物なのだ。

中臣氏系図

中臣氏の祖は天児屋根という。
屋根が入ってるから建物の屋根の神だとか言われるが、根は男性の名前の最後に付く尊称か敬称かだと思われ、天も高天原の神だから付いてるだけなので、名前の部分は児屋だ。コヤならやはり小屋では? と思う人も多いだろう。
コヤはカヤでは?
とも思える。中臣氏の系図も尾張氏や物部氏、三上氏、出雲国造氏、紀氏と同じく中々にしてあやしい。

中臣氏系図

主に三上氏と額田部氏から嫁を娶っている。
三上氏は琵琶湖の南、額田部氏は琵琶湖の西北の氏族で中臣氏自体が琵琶湖から離れていないように見えるが、実際は中臣氏と琵琶湖はあまり関わりがない。何故余呉湖に突然中臣氏が関わるかもわかっていない。

中臣氏は鹿の大腿骨を使い太占をする。
中臣氏の神社で有名なものに鹿島神宮があるが、鹿が神使で、鹿島なのは太占と関連がある。鹿島大神は志賀島の神と同一といい、志賀島はまさに鹿の島だ。
とすれば中臣氏の出身は奴国のはずだが。

それはともかく、中臣氏の系図には、天女の名が刻まれている。
豊幡姫だ。神功皇后の時代から5代遡る。

神功皇后系図

天皇家の系図とは世代が異なるが、神功皇后の系図を辿ると、同じ世代になる。
伊香刀美と天女の世代と、天日槍・阿加流姫の世代が。

だからと言って中臣氏が阿加流姫の子孫とは限らないが。

ヤマトタケル以前に固定をして各豪族の系図を比べると、同一人物ではないかと思われる名前の類似がいくつもある。例えば中臣氏の系図にも宇奈比姫が出て来る。

そして羽衣天女

羽衣とはそもそも何だろうと考えて、私たちがすぐに思いつくのは織り姫がふわふわとまとわりつかせている浮いた布だ。
この布には名前がある。
比礼だ。

羽衣天女の伝説の地で有名な場所がもう一つある。
静岡の、三保の松原だ。
三保の松原の天女はその羽衣を木にかけたまま天に帰ってしまった。

三保の松原の天女の羽衣は御穂神社で祀られている。
御穂神社の祭神は大己貴と三穂津姫だ。
名前だけで出落ち感があるが、何故ここに三穂津姫が祀られているのか考えると、考え込んでしまう。
余呉湖は、琵琶湖から敦賀に抜ける途中にある。
静岡は何故?
色々思い返してみると、思いついたことがある。
この三保の松原のあたりで、伊勢津彦は消えた。
それから、諏訪湖からは富士川を下ってくれば三保の松原に着く。

いいなと思ったら応援しよう!