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イカふたたび
昔、宝賀寿男さんの本を読んでいた時に、瀬織津姫が五十猛の妻神と断定されていてびっくりした。
当時は阿加流姫を追っていなかったものだから、何だそれどっから出てきたよ瀬織津姫、と思ったものだったが、今考えてみるとなかなか鋭い。
系図の研究からもそうなるのか。
瀬織津姫は向津姫とともに天照大神の荒御魂で、汚れを流す神として大祓祝詞にも出てくる。向津姫は甕津姫だろうし、豊受大神とも縁のある六甲山に祀られている。六甲(むかつ)ゆえ六甲山となった。六甲姫神社では瀬織津姫を祀っている。
瀬織津姫は、おそらくは新羅から来た太陽の女神細烏女だ。細烏女は西暦248年に日本に来た。阿加流姫を新羅から見た神話だろう。
宝賀寿男さんは系図研究で有名な方で、各豪族の系図研究書を多数出されている。
系図を見ていると、全然別の豪族なのに、先祖の深いところでよく似た名前が出てくることがある。
なんでだろう、と考えてみた結果、そうか、古代は双系だったから、どこかの世代で有名人の子孫が入ってくると、以降の世代で祖先をたどる時にその有名人がいる方の祖先を辿るのかも!?
それで、有名な同一人物があちこちの家系に入ってきているのでは?
ということは、今は有名でなくても古代のある時点では、あちこちの系図に出てくる人物は当時とても有名な人物だった、ということになる。
イカの人
天女の夫、烏賊津臣はイカ+ツ+臣だ。
建御雷だって、よく考えると、タケ+ミ+イカ+ツ+チ……。
いや、タケ+ミカ+ツ+チかもしれないのだが。
いやいや、そもそも、イカツはミカツかもしれない。
水光が伊加里になるならば、ミカツもイカツになるだろう。
だからと言ってイカツ=阿加流姫に結び付けるのは慎重にしておく。
甕(みか)、ミケの付く古代人名は多いのだが、何が由来なのか今一つ確定できないからだ。
御饌(みけ)のケが竹であるので、竹に由来するのか。
水光(みひか)が縮まったものなのか。それだったら水銀に由来する。
どちらにしても阿加流姫に由来する名前だが、父はケツミコだし(熊野大神は阿加流姫のような気はするが、一応通説として)、母はオオゲツヒメだし(阿波と伊都では阿加流姫がオオゲツヒメのようだが、一応一般的には稚日女がオオゲツヒメ)、代々継いできた称号の可能性もある。神武天皇の別名に若三毛野があるのは、名を継いだのかもしれず、するといつから継いでいたのか。
逆に甕津姫、水光姫の両親だからその名になったという可能性もある。
イカツの名の人は天女を妻にしたり、丹塗矢になって玉依姫を犯したりしているので、男性だ。
どうもイカの人の妻の方が阿加流姫くさい。
中臣氏系図
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中臣氏は鎌足の生家で、鎌足は鹿島神宮の神官家だった、と伝えられる。
私は蘇我入鹿が好きなので、鎌足の名を見ると嫌悪感を覚えてしまう。そのためとばっちりを受けて中臣氏もあまり好きではない。
しかしよく考えてみると、何故中臣氏が鹿島神宮に? と不思議な気持ちになる。
中臣氏の祖は天児屋命で、鹿島大神である建御雷ではない。
さらによく考えると、天児屋命は小屋の神だの屋根の神だの言われるが、鴨氏の伊可古夜比売と同じく、コヤは伽耶ではないかと。
さらに言えば中臣氏の太占は鹿の大腿骨を用いるのだが。鹿を用いるから鹿が神使になったのでは。鹿で占うから鹿の島になったのでは。
鹿島大神は阿曇磯良だというが、阿曇磯良の神楽歌が残る志賀海神社は志賀島にある。志賀島は鹿の島で鹿島の名はそこから来ているのではないか。
志賀島から奴国の金印が出ている。
中臣という名からどう見ても臣下ではあるのだが、阿曇氏と深い関係があったのかも。
この系図の天女の子供、梨迹臣の子建稲穂の時代が崇神天皇なのだそうだが、伊賀津臣の曾祖父母の時代が神武天皇の時代になる。
吉備氏系図
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吉備氏は倭迹迹日百襲姫と非常に関係が深い。具体的には異母兄弟の稚武彦が祖になるのだが、倭迹迹日百襲姫の母と稚武彦の母は実の姉妹だ。姉妹の親は磯城県主葉江と言われる。磯城は奈良の田原本のあたりのことだが、そこを治める県主葉江はどうやら淡路島に住んでいたようだ。
この姉弟たちは天皇家の系図をたどると孝霊天皇の子になるのだが、吉備氏の系図では、古事記にのみ名のある孝霊天皇の同母兄大吉備諸進の子となっている。諸進は「もろすすみ」と読む。
……もしや建諸隅??
御穂須須美の須須美の須須美は系図上の父親(養父?)の建諸隅から来ている?
魏志倭人伝の都市牛利ではないかと思うし、大変な有力者だったと思われ、建諸隅らしき人の痕跡はあちらこちらの系図から見つかる。
ところで磯城県主葉江から辿るとその娘は綏靖天皇に嫁いでいる。
その名は川俣姫というが、五十鈴依姫とも糸織姫とも言い、こうなると御衣織姫と同一人物じゃないかと思えてくる。
五十鈴依姫から追うと、今度は父が事代主になる。媛蹈鞴五十鈴媛の妹だ。葉江はどこに行った!?
それに天足彦国押人だ。石見で検証したときに出てきた人物だが、孝安天皇の名に似すぎていないか。むしろ、天足彦国押人の方が偉そうな名前ではないか?
最後に意加都彦だが、今回のメインのイカの人だ。
何故孝霊天皇の孫の世代の人がヤマトタケルの東征について行っているのか。
意加都彦の従妹に景行天皇の皇后にしてヤマトタケルの母もいる。
孝霊天皇の曾孫が崇神天皇で、崇神天皇の孫が景行天皇だ。
かくも欠史八代は混乱している。
意加都彦の弟に建功狭日がいるが、読みは「たけいさひ」だ。しかし、功がいさと読むのでもともと「たけいささひ」ではないかなと。
大伴氏系図
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香都知はかぐつちと読む。天押人は尾張氏系図にも登場する。天皇家系図にいる天足彦国押人と同一人物だと思う。
大伴氏の本貫は大阪、和歌山などの説があるが、神武天皇とともに奈良に入っているので、もともと近畿の一族ではないような……。率いている久米部はヤマトタケルの征西・東征の途上に点在している。久米が久留米と関係あるとはどこの誰も書いていないが、関係ないのかな? 久留米あたりまでが紀氏の領域で、大伴は紀氏の伴だったのではと思うのだが。突然和歌山山中で神武天皇の随伴として現れるが、紀氏の増援だったのでは。
安牟須比は小石原川の古名夜須川に由来してそうだし。
夜須川は天安河原のような気もする。
この天安河原のことを考えると、邪馬台国は伊都から甘木、日田、中津と遷都していったような気もしなくはなくも……。それはともかくそんなわけで大伴氏は久留米あたりの出身だと思う!
しかしそんな説は誰も唱えていない。私の中では何の不思議もない説なのだが、世間一般では荒唐無稽すぎる?
大伴氏と刺田彦も気になる。
そういえば、椎根津彦は紀氏ではと思ったが、猿田彦と重なるならば大麻比古のような気が……とも思ったが、刺田彦が猿田彦で紀氏に関係あるならば、大麻比古と紀氏に何か関係があるのかもしれない?
どこかで力を貸すことになった?
三上氏系図
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前に載せたときはしれっと意富伊我都と火雷をつないでいたが、イカの人の同時代は同一人物だろうと思ってのことで、正確には同一人物とは証明されてない。ただ、阿加流姫の配偶者がイカの人なのは間違いなさそうだ。
三上氏系図は阿加流姫が天日矛の妻だと言ってるし、イカの人は天日槍なのだろう。
最初は甕だったのかもしれない。
建御雷は天日槍かもしれない。
いつかイカになり、だから由良比女とイカが結びついたとか?
そうするとやはり五十猛は少なくとも後半では天日槍だったのだ。
阿曇磯良は天日槍だ。