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をとめの胸鉏とらして

舞台は一転出雲へ!

香春神社と宇佐八幡に漂う出雲のにおい。出雲に何かヒントがあるかもしれない。

出雲は神話の中でも重要だ。この小さな地域が日本神話の3分の1の量を持つ。

だが歴史で見ると、何故そんなに重要なのかはわからなかった。

近年見直されてきているが、昭和末期までは神話は神話、大和朝廷に対する敵勢力の象徴として僻地の出雲が選ばれたに過ぎないなどと言われていたのだ。


荒神谷遺跡

日本の国土の一部は古い時代の遺物を含んでいて、それがありそうな地域は法律で様々な規制がかけられている。
その地域を工事するときはあらかじめ遺跡があるかの調査をしなくてはならない。
広域農道を出雲の西谷地区に通そうと言うときもそれだった。
西谷は語源が斎谷ではないかと言われていて、地元では昔からあそこには何かがあると言い伝えられていたのだそうだ。
広域農道を作る際にもそれで調査をしたのだが、昭和58年、事前調査の調査員が土器の欠片を見つけた。それで翌年本格的な調査が行われることになり、その調査で銅剣が358本も出たのだ。
このニュースは日本全国を驚かせた。
その時までに日本全国で出土した銅剣の量は300本あまり。
西谷地区の発掘調査だけでそれを上回る本数が出たのだ。

荒神谷の銅剣は古代出雲歴史博物館に展示されている

また銅鐸と銅矛も一緒に納められていた。

それまで、銅鐸は畿内の文化、銅矛は北部九州の文化とされていて混じり合うことはなかった。それが出雲で混じり合ったのだ。

西谷の発掘現場は三宝荒神が祀られていたことから荒神谷と呼ばれることになった。

荒神谷は出雲の西部にある。
出雲は古墳時代に入ると西部が廃れ、中心は松江市以東に移っていた。

荒神谷の遺物は弥生中期から後期のものだ。使われなくなって遺棄されたのだとすればそれより後の時代に埋めたのだろう。
また銅剣には×のしるしが刻まれていた。
まるで封じるように。
銅鐸は入れ子にして埋められていた。

その出来事はおそらくは弥生後期から末期、出雲西部の神門が放棄される頃に起こったのではないか。
そんな風に思えるが、いまだ詳細は謎に包まれている。

古代出雲歴史博物館は出雲大社参道に隣接しており、出雲大社参拝のついでに立ち寄るのが良い。

荒神谷遺跡は公園になっているが、交通の便は悪く、庄原駅から徒歩40分かかる。
出土した現場は見ることが出来るが、臨場感以外は古代出雲歴史博物館の方が良い気がする。

こんな写真しか残ってない。何故出土現場を撮らなかったのか。

道中にこんな山があって、どこから見ても古墳に見えるのだが古墳じゃあないらしい。本当に??

石見国

石見は出雲とは別の国となる。これは古代から同じで、三瓶山を境に国が変わる。
出雲よりも残っている資料が少なく、研究も進んでいないが、姫神の伝説が残っている。
その姫神の素性も大変興味深く、改めて石見を見てみればその土地は新羅と出雲の間、九州と出雲の間でもある。

石見の姫神、胸鉏姫

昔、石見の波子に箱舟に乗った幼い女の子が流れ着いた。年の頃は六つか七つばかり。身なりはよく、良い家に育てられた子どものように見えた。

そこで波子の老夫婦がこの子を育てることにした。

親は誰か、名は何かと訊かれても答えることはなかった。
どこから来たか問われると東の方向を指さした。
波子から東には出雲の国があった。その向こうには伯耆の国、因幡国、丹波の国と続く。

大きくなるにつれて、娘は弓矢の稽古をするようになった。

姫が十三歳になったある日、東に異変があることが報された。遠い国からの軍勢に攻め入られているのだと言う。

その時になって娘はようやく自分の素性を明かした。

名は胸鉏姫という。

幼い頃、父スサノオの怒りに触れ流されたのだった。
またの名を田心姫とも言った。

月支国の王彦波瓊(ひこはに、ひこはるとも)が十羅(済州島)の軍勢を率いて出雲に攻め入っている。
出雲は苦戦しているが、自分が戻れば必ずや勝つであろうとお告げがあった。

姫は老夫婦が止めるのも聞かずに旅立った。

出雲に戻った田心姫は軍勢を制し、勝利をもたらした。そして十羅刹女の名を賜った。

老夫婦は嘆き悲しんで石になってしまった。

姫が老夫婦を振り切るために隠れた岩は今も波子に残っている。


これは石見の波子というところの隠れ岩の伝説で、この後日譚が益田市に伝わる石見神楽の「十羅」になっている。「十羅」の前日譚が胸鉏姫というべきか。

波子は益田と出雲の間、真ん中くらいにある町だ。

日本海の北、大陸側をリマン海流が東北から南西に向かって流れている。
朝鮮半島の南岸には対馬海流が西から東に向かって流れ、丁度釜山と慶州の沖あたりでこの二つの海流がぶつかり、それで石見から出雲にかけての海岸には様々なものが流れ着く。
胸鉏姫もそうしてここに流れ着いたのだろう。

どこから来たのかは語られないが、またの名を田心姫と名乗っている。
また胸鉏姫の鉏の字に「カタ」と訓を振っている文献もある。
「ムナカタ」は宗像だ。南方、または水方が語源だとも言う。

また宗像は、出雲の建御名方神の御名方と同じとも言う。建御名方は国譲りを迫られたときに一人拒否して建御雷と戦い、負けて諏訪に敗走した神だ。
建御名方刀美とも言い、刀美は津女とも通じて、女神の可能性もある。

日御碕神社では胸鉏姫は宗像三女神の別名であるとも伝わる。
宗像三女神は、須佐之男が裏心なしの証明に請願した時に生まれた娘だ。

そして宇佐の比売大神でもある。

この胸鉏の名はまた、別の有名な場面にも出てくる。

出雲国

国引き神話

八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小く作らせり。故、作り縫はな
と詔たまひて、
栲衾志羅紀の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり
と詔りたまひて、童女の胸鋤取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛繰るや繰るやに、河船の毛曾呂毛曾呂に、
國來、國來
と引き來縫へる國は、去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御埼なり。かくて堅め立てし加志は、石見国と出雲国との堺なる。名は、佐比賣山、是なり。
亦、持ち続ける綱は、薗の長濱、是なり。

出雲国風土記

ここにをとめのむなすきとらして、という謎の言葉が出て来る。

出雲は様々な国から国土を引いて国が成ったという神話を持つ。
国を引いたのは八束水臣津野という神で、神々の系図では須佐之男の四世孫となっている。
石見神楽の「十羅」では彦波瓊は、引かれた新羅の国土を取り返すために出雲に攻め入るので、物語はここから繫がっている。

鉏とは

カタとも読ませるこの漢字は、いわゆる農具の鍬なのだが、意味としては薄く削り取るもの、というものになる。
この鉏についてはまた後で語ることになると思う。
何故ならば後で何回も鉏が出て来るからだ。

童女の胸鉏とらして、とはどういう意味となるかというと、童女の胸のように薄く削り取る?
だが、削り取った土地が杵築とかなので全然薄くはない。

原文を当たるしかない。

八雲立出雲国者狭布之稚国在哉初国小所作故将作縫詔而栲衾志羅紀乃三埼矣国之余有耶見者国之余有詔而童女胸鉏所

童女胸鉏が固有名詞とかある??
つまり胸鉏姫をもって、領土を削り取った。
何故なら彦波瓊に勝ったからだ。
彦波瓊は月支国の王だ。
月支国は今のソウル近郊にあったと推定されている馬韓(のちの百済の領域を馬韓という)の諸国の1つなのだが、辰韓(のちの新羅の領域)の諸国の盟主でもある。
彦波瓊に勝ったので、新羅の地域を支配することになった、とも言える。

出雲と石見を結ぶ姫神たち

狭姫

狭姫は国引き神話に出て来る狭姫山の神だと言うことしかわからない。
江戸時代に作られたと思われる、石見の民話に狭姫が出て来る。
学のある人が作ったものらしく、神話との整合も取れており、神話の謎を埋められるような非常に魅力的な物語だ。

天豊足柄姫

天豊足柄姫(あめのとよたらしからひめ)は石見の浜田市の伝説だ。
八束水臣津野の時代と言うから、もしかしたら胸鉏姫と同じ時代かもしれない。
石見に八色石という大岩があった。大蛇に変じて災いをなし、人を苦しめていた。そのため石見を守る姫は八束水臣津野に助けを求めた。
八束水臣津野は姫の求めに応じて大蛇を退治した。
そこで姫は八束水臣津野をもてなしたが、夜が明けると姫は身罷って石と化していた、という伝説がある。
天豊足柄姫はこのことから石神とも呼ばれている。

御衣織姫

御衣織姫(みそおりひめ)はその妹であるという他は何ひとつ伝わっていない。
江戸時代までは浜田市の伊甘神社の祭神だったようだが、現在伊甘神社の祭神は天足彦押人となっている。この人物は和迩氏、春日氏などの祖で孝昭天皇の皇子だ。
また伊甘神社の祭神は溝樴姫と言う説もある。溝樴姫の元の名が御衣織姫なのかもしれない。
溝樴姫は神武天皇の后の母である。

天豊足柄姫は須佐之男の娘大屋津姫、御衣織姫は抓津姫であるとと言う。
この二女神は海の向こうで生まれ、五十猛と同じ母から生まれてきたとも。

五十猛の子孫が、香春岳ゆかりの宇佐の社家、辛嶋氏となる。
また、紀氏も五十猛の子孫とされる。

共通点

決め手はないのだけど、ちょこちょこと繋がりが見えてくる。
海を越えてやってきた阿加流姫と、箱舟で流れ着いた胸鉏姫。
同じ石見のおそらく同じ時代に居た天豊足柄姫とその妹御衣織姫。
その兄は香春岳と宇佐に関わりがある。

天豊足柄姫に関しては気になることが一つある。
別名の石神だ。

建御名方が敗走し祀られることになった諏訪には、ミシャグジという神も祀られている。この神は諏訪から関東、東海、伊勢、畿内まで祀られる。
漢字で書くと「石神」だ。

また、建御名方は建御名方刀美ともいい、女神である可能性もある。
その妹を御穂須須美といい、美保崎の女神だ。

八岐大蛇は出雲国風土記には出て来ないと言う話は有名だが、代わりに八束水臣津野が大蛇を退治している。
胸鉏姫は須佐之男の娘だが、出雲国風土記では八束水臣津野が胸鉏の名を出している。
記紀の須佐之男=出雲国風土記の八束水臣津野?

ちなみに津野の津は助詞、野は男性の尊称の根だ。
八束水はかつて繫がっていた宍道湖と中海を繋ぐ水道の名で、この地域の支配者という意味になると思われる。

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