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【自己紹介5】20代後半を深掘る。

こんにちは!
アロマで起業を目指す yuAReT(ユアレット) です。

夜に洗濯物を畳んでいたとき
お風呂上がりの息子から
「早くお茶入れて!遅い!」と言われました。
「ママは今お仕事をしてて、
 遊んでるわけじゃない。ちょっと待って」
と応えると、息子から
「ママは遊んじゃダメでしょ」って
返されたんです。

それにカチーンときてしまって、
「ママだって遊びたい時はあるよ」
とむくれてしまいました。

我ながら大人気ない態度だと思いますが、、
「どうやらママも遊びたいと思うらしい」
というのは伝わった気がします。

ママも遊びたいんじゃ

生きるには金が要る

私に「実家」はありません。

母がいる場所、ならありますが
生まれ育った家は売り払われ、
私が成人するまで過ごした賃貸からも
母は引っ越しており、
さらに再婚者と暮らしています。

なので
「実家に帰る」という感覚はありません。

しばらく兄や母の元に置いてもらいながら
人生を変えたいと思って
パニックが寛解するまでは
ゆるゆると過ごしました。

しかし何分、生きるにはお金が要ります。
ただ飯食らいはできません。
生き方を変えたいと
違う職種への就職を模索しましたが
ご縁はいただけず、
貯金は底をつき、
倉庫バイトをしながら
転職エージェントの門を叩きました。

紹介されるのはやはり、
打率が高いであろう同業種の同職種。
懐事情から私は自分に言い聞かせました。

「好きなことをするために、
資金稼ぎのために少し我慢しよう。
無理だったらすぐ辞めよう」。

余談:試しやすい今の環境

新卒当時、
身の回りで素敵なお仕事だと憧れたのは
コピーライティングやアートディレクション。
でもそれになる方法を調べても
美大を出てから云々、、と
スタートラインに立てないと感じる
説明が並んでいました。

今は手軽に表現し発信できる時代。
会社員として雇われようとせずとも
自分の創作を出しやすく
見てもらいやすく
近しい何かを探るには
とても挑戦しやすい、試しやすい
環境になったなと感じます。

AIを使って効率的に、
ハズレなく量産するという手段も
ありますが
生身の人間だから感じられること、
アウトプットされることに
シフトしていきたいです。

稼ぐための転職

腹を括ると、転職は拍子抜けするほど
すんなり決まりました。

入ってみればそこの空気は
体育会系で、少しひりついていて
(あぁ、あまり馴染めないな)
と少しがっかりしました。

また職種柄、終電までかかったり、
いざとなれば朝までコースになることも
ままあります。
それは前職と変わりません。

ただ.新しい職場は
遥かに組織として機能していました。
ワンマンではなく、
社員のアイディアや意見が聞かれ反映され
生きた議論が交わされ
ロジックをもって判断され、説明される。

私にはそれが当たり前ではなかったので
なんて生きやすいんだ!と感じました。

色々親睦会などにも
頑張って参加したものの
全く馴染めないままでしたが、
そこを割り切れば
「働きやすい」職場でした。

生業を変えることはできなかったけど、
これでまた自立して生きられると
自分に言い聞かせました。

ものづくりに勤む

入社してある程度資金が貯まると
「自分で服を作ってみたい」という思いから
ファッションを学ぶために
土曜日に服飾学校に通い、
デザインと縫製の勉強をしました。

クロッシェなどの編み物、
タティングなどレース作りを経て、
刺繍も大好きなので
大きな木枠に張ったオーガンジー生地に
ペンのような針を使って
刺繍糸やビーズなどを図柄に装飾していく、
リュネビル刺繍を学びに行きました。

無心になれる

特にハマったのは
アーティフィシャルフラワーです。
艶のある生地や凹凸のある生地などに
顔料を溶かして混ぜ
布を染め上げて
そこから花弁や葉の形に切り取り
ワイヤーや綿を使って
花の形や枝葉をつくります。
そこからワイヤーを何本か取り
枝に花と葉っぱを入れながら
生地を貼り合わせたり、
巻き付けたりしていきます。

一日中集中できるし、
できたものを家に飾るのも満足感があり
しばらく通い、
結婚式の時も自分で作った
花飾りを多用しました。

平日の帰りは遅く、ヘトヘトだったので
土日はこういったものづくりに集中して
過ごしていました。
ストレス発散になるし、
いくらでも集中できるし、
手を動かしたり
デザインを考えたりするのが愉しい。

20代前半で
書店巡りを通じて
「好き」を見つけていったからこそ、

そして東京に戻り
様々な技術を習いやすい場に移ったからこそ
できたことだな、と振り返っています。

今はイタズラ好きな子どもたちがいるので
仕舞い込んでいますが、
もう少し大きくなったら再開したい
大切な趣味です。

行きたいところへ翔ぶ

色々趣味は広がるものの
生き方を変えること、
生業を変えることができなかった私は

折角お金を稼いでいるんだから
いつしんでもいいように
行きたいところに行ってみよう、

ずっと憧れている
オーロラを見にいこうと思い立ちました。

英語はろくに話せません。

行こうと決めた
カナダのイエローナイフは
飛行機の乗り継ぎが2回あります。

オーロラを見届けるには3回以上は
トライできた方がいいので、
宿泊数の確保も必要です。

イエローナイフ自体は
氷河が身近にあり
スーパーや地元のお店などはありますが
栄えたリゾート地などではありません。

夜通し起きて観測するために
日中はある程度
睡眠時間を確保するサイクルになります。

何が言いたいかと言うと、
誰かを非常に誘いにくい旅だったのです。
旅費が高くつく、
移動負荷も高い、
オーロラ観測が目的のため
日中は娯楽に興じる時間ではなく
睡眠時間。

英語は話せないけど、1人で行こうと
悩むこともなく決めて
手続きし、イエローナイフに向かいました。

空港の乗り継ぎなどで
場所の確認に苦労したりはしたものの
問題なく過ごせましたし

オーロラは3回目のラストチャンスで
最大レベルのものを見届けることができました。
夜空を覆い尽くす
満天の光移ろうカーテンは
いまだに目に焼き付いています。

それに
1.2回目はオーロラを見れなかったものの

星屑は浜辺の砂のように
ひしめき合って瞬き、
時に流れ、
月が刻一刻と下り
朝の気配が迫る。
真っ暗な夜道を歩き、
ティピーで暖を取り、
ただ空を眺め続ける。
その時間を目一杯味わえたことも
極上の贅沢でした。

更に、私は水辺が好きだ!と思いと共に
バンフという場所にも立ち寄り
ルイーズ湖などの水辺にも複数訪れました。
日本では見られない山岳と湖の広さ、
水の色や水際の花々は
西洋画に描かれる世界観で
とても美しかったです。

他にも
美術館巡りにイギリスへ、
宮殿や歴史を観にフランスへ、
マウナケアで朝日を拝みにハワイへ、
神話を辿りにギリシャへ、
友人と非日常の世界に浸るのが
刺激的でした。

婦人科と向き合う

私は高校受験をしていて
中学時代はSAPIXという
塾に通っていました。

学校から帰ったら軽食を食べて
電車に乗って塾へ通い、
22時頃に帰ってきて夜食を食べ
入浴したら塾の宿題をして夜を明かし、、
というような生活をしていたせいか

その頃並行して家族問題もあり
ストレスを抱えやすい性質のせいか

初潮まもなく不順だったように思います。

不順が当たり前、でティーンを過ごし
社会人になってからも
朝まで働くことを続けた結果
半年生理がこないこともありました。
また下腹部の痛みに耐えかね
帰宅途中に道で蹲ることもありました。

結婚して子供のことを考える頃
婦人科を受診して
多嚢胞性卵巣、と診断されました。

ホルモンバランスの問題や
生理がきても排卵しないハードルがあり
毎朝体温を測って表に書き留め
ピルを飲んでリズムをリセットし
経過観察をしました。

ピルというのは相性があるそうで
初めて処方されたピルは
飲むたびに強烈な吐き気に襲われ
通勤中に乗り換え駅で倒れ込み
駅員さんに救助された思い出があります。
万人共通で飲めば効く、飲めば楽になる
というものではないことを知りました。

第一子はその上でタイミング療法、
第二子は更にホルモン剤投与を受けて
しばらくして授かることができました。

特に第二子は想像より時間を必要とし
同時期に第一子を産んだ子たちが
次々と第二子妊娠、と報告をくれる中
少し重い気持ちになったことはあります。

生理は順調、
体に不調はない、
元気が取り柄ですぐ授かれる。
それが羨ましくない、と言ったら嘘になります。

でも、私の体も頑張った。
子どもたちも2人、来てくれた。
今では2人がいない人生なんて考えられません。

子どもたち、特に娘には
昼夜逆転せず
睡眠をしっかり摂って、
自然に備わっているサイクルで
体のリズムを大切にしてほしいと
願っています。

トラブる妊娠出産

妊娠早々始まった悪阻は6ヶ月続き、
飲まず食わず身動き取れず、
寝たきりの生活を送りました。

やっと飲み食いや動けるようになった矢先に
妊娠糖尿病と診断され、
毎食掌に針を刺して血糖値を測り
規定値を超えないように
白滝を啜る生活になりました。

迎えた本陣痛はそれと気づかずに
夜中に何度寝直しても起こされる痛みに
やっと「そうなのかも」と気付きました。
「まだ様子見したら?」
と寝直す夫に苛立ちながら
病院に電話したら
15分間隔を切っていることが
わかって怒られました。笑
(本陣痛で15分間隔を切るリズムになっていたら
もう分娩の支度をする頃合いです)

23時、玄関を出ようとした時に破水し
タオルをあてながら産科に駆け込みました。
でもちょうどその日の日中に
先生から
「骨盤が狭く、胎児が大きいので
最後突っかかる可能性がある。
だから帝王切開にしよう」
と言われていました。

入院先の先生や
帝王切開ということで
最寄りの大学病院の先生たちが集まるまで
陣痛の痛みと闘い(揃ったのは朝7時過ぎ)、
助産師さんが
「産めそうだけどねぇ」と呟くのを
それなら早く出したいと恨めしく感じながら
本陣痛が始まって約8時間後に執刀され、
長男を産みました。

助産師さんからは
「フルセットね、本当にお疲れ様」
と労ってもらいました。

産後の入院期間、
看護師さんたちはスパルタで
院長先生は回診という名の
通路を通り過ぎるだけ
という"ハズレ"の環境でした。

(娘を産んだ時は町医者ではなく
大学病院を選び、
寄り添ってくれる看護師さんたち、
しっかり面と向かって
相談に乗ってくれる先生の回診、
という環境を体験したので
あえて"ハズレ"と表現しています)

術後は麻酔などなく、
激痛で起き上がることは寝返りも打てない中
冷めた表情の看護師さんたちが
「自力でトイレに行ってね」
「まだそんな時間かけてるの?」と
追い打ちをかけてくる状況でした。。

命を守るプレッシャー

「お乳が出ない」
「息子が上手くくわえられない」
「げっぷが上手く出ない」
「すぐ泣いて寝てくれない」

玄人なら
「この子はこういうタイプね」
と割り切れるものでも
初心者は
「なんで?私が下手だから?」と
焦ります。悩みます。
ナースコールを鳴らしてもブチっと切られる、
ため息混じりで応答されて来てくれない、
来てくれても「こっちは忙しいのよ」と
嗜められる、
沐浴やおむつ替えで「手際が悪い」と叱られる。。

私は気にするタイプですし、
打たれ強くもなく
早々にメンタルをやられました。
新卒のブラック経験を活かし?、
こういう時は心のスイッチをオフるに限る、、と
感情をころすようにしました。

もし私が看護師側だったら、
初産の、傷もまだ強く痛む母親に対して
「不安だよね」
「こんなものだよ、大丈夫だよ」
「頑張ってるよ」
と声かけしたい。
色々お世話のコツを伝えるのもいいし
疲弊している心を労いたいところです。
慣れてしまうと、看護師さん、助産師さんも
自分の忙しなさに
心なくしてしまうものでしょうか。


息子を産んで、退院の日を迎え
夫は育児休暇をとったものの
特に実家のサポートもなく
家事も普通にこなす産後がスタートしました。

まだその時の私は気づいていない
30代、繊細っ子育児のはじまりでした。

今日はここまで。
皆さんの明日がやさしい日でありますように。

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