私は今、トンネルの先にある「泣く」に手を伸ばしながら無感情で歩いている。
今、人と顔を合わせたら泣いてしまいそうだなぁ。
仕事でモヤモヤしたことがあった帰り道。涙をギリギリ堪えながら電車に揺られていた私は、自宅に帰って当時一緒に住んでいた人と顔を合わせたらいよいよ泣いてしまう、どうしよう、とぼんやり思っていた。相方がテレビを見ているだろうリビングを通らないと自分の部屋にも行けないし。
行き場のない想いをSNSで呟いてみたら、友人が「泣きたいときは泣いたほうがいいよ」とメッセージをくれた。その優しい言葉に電車で泣き、だったら相方の前だとしても家で泣いたほうがよかったのでは、というよくわからない状態にはなったけれど、スッキリした顔で「ただいま」できた。
「泣く」ことは大事である。モヤモヤを洗い流してくれる。そんなことは誰も知っているだろう。しかし、堂々と泣ける場が身近にあるかと問われたら、案外浮かばないのではないだろうか。大人になればなるほど。一度泣いてしまえば済むものをしこりのように残したまま生きている人もきっと少なくないはず。
いつからだろう。しばらくちゃんと泣いていないなぁ、と思った。なぜだろう。すぐにわかった。子供のときから当たり前のようにそばにあった生のエンターテインメントにこの一年ほど触れられていないからだ。理由は書くまでもなく。
登場人物に共感して泣く。ステージにいるエンターテイナーたちの輝きが眩しくて泣く。彼らから放たれるエネルギーに心を突き動かされて泣く。そして、その場にいる見ず知らずの人たちと時間を共有できて泣く。そんな「泣く」を私は久しくやっていない。その時間、その場所に居合わせた人だけに与えられる特権のような「泣く」を。
ライブエンターテインメントを“する側”の人はよく、”される側”の人を笑顔にしたいと語る。「お笑い」というジャンルまで確立されていて、「笑う」は社会においても重きが置かれている。我々“される側”にとっても、ライブエンターテインメントを求める理由はやはり「笑顔になりたくて」だろう。もちろん、「笑う」も人生には欠かせないエッセンスだ。しかし、家でも、職場でも、はたまた見知らぬ場所でもわりと気軽に得やすいものではある。
それに比べ、「泣く」は厄介だ。大人になると俄然機会が減ってしまう。「笑う」より「泣く」ほうがストレスの発散になるという研究結果だってあるくらいなのに。そんな大人にとって、ライブエンターテインメントはどんな日常にも邪魔をされず、誰の視線も気にすることなく堂々と泣ける場。「辛い」ではなく、「嬉しい」涙だから心おきなく浄化されて元気になれる。どれだけ貴重な機会であったか。しばらく手放すことになって初めて気付いたような気がしている。
ライブエンターテインメント業界が自粛を強いられるという“矛盾”にぶち当たって一年が経つ。ライブエンターテインメントは「要」か「不要」か。世の中が大激論していたあのときから、前に進んだようで同じことを繰り返しているようでもある。そんな長いトンネルの中にいる皮肉な状況にこそ泣きたくなることはあれど、日常生活で疲れた心を洗い流してもらえるような「泣く」はまだまだ遠くにある、ようだ。トンネルの先に見えるかすかな光まで手を伸ばすように無感情で歩き続けている。いつになったら抜け出せるのかわからない。ただ一つはっきりしているのは、歩けば歩くほど「要」の字が脳内で存在感を増していく、ということである。
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