個人主義は強者の理論か。
先日友達とこんな話になったので。
というか、こんな話ができるなんて、良い友達に恵まれたわ笑
現代思想に疎いので、個人主義という言葉が含んでいる意味を理解しているわけではない。あくまで文字通りの意味で使っている。
資本主義は、努力した者が報われる社会だと信じているが、その機会は誰にでも平等にあるものではないのは確かだ。
育った環境が違えば、巡ってくる機会も変わる。
それでも、いままでのどんな時代よりも実力が評価されやすくなっているのは間違いないことだが。
環境が違えば、ということを書いたけれども、少なくとも日本で育った者にとっては、個人の努力や能力がいちばんその人の人生を決めることになるのだと、わたしは信じている。
いまの自分があるのは、自分の努力や能力があればこそ。もちろんそれができる環境にあり、生まれ持った能力があり、という前提があるけれども。
恵まれているのは、確か。
ただその「恵まれている」という定義そのものを疑うのも、人生の多様性を認める上ですごく大切なんじゃないか、と思うわけだ。
恵まれた環境にいた「せい」で、経験できないことはたくさんあるんじゃないかなと思う。
逃れられないしがらみ。無駄なプライド。一度味わったら離れられない恵まれた生活、環境。
その人の恵まれた人生において、選択肢にもあがらないことが、実はその人にとって最も適した道だったりするかもしれない。
可能性は低いかもしれないけれど。そんな場所で上手く適切な選択肢に出会う可能性が低いから、みんな同じようなゴールを目指してしまうのかな。
これは本当にほんの一握りの例なのかもしれないけれど、辛い境遇にあった人こそ、なにかの局面でその経験を発揮できる強さが育つ場合もあるじゃないかなと。
成功者の下積み時代がいちばんの美談になるわけで、しかも美談なだけでなく、その人の中に培われるわけで。
わかりやすい強さじゃないとしても
他者への共感性とか、寛容さとか、あるいは厳しさとか。
どの人も結局ないものねだりなんだから、個々人の自由で、努力で、与えられた環境で、与えられた能力で、その人の目指す理想の人生を全うすることが、この時代に生まれた人間の歩むべき道なのかな、と思う。
豊かさや成功の定義を社会が決めて、誰かを導いていくようなあり方は好きじゃない。
自分と、自分の周囲の人が幸せであればいいじゃないの。と、強く思うんだけど
全世界の人がそれを願ったら、幸せな世界になるはずなのに、そうならないのは、誰かの幸せと誰かの幸せが矛盾するからだ。
そうすると、強い者の幸せが、矛盾する相手を差し置いて優先して実現されてしまう。これがいまの世界の矛盾を生んだ原因のはずだ。
わたしは、誰かの幸せは誰かの犠牲のもと生まれている、という見方をしている。
その犠牲を理解し、フォローできるところをフォローした上で、個人とその近くを幸せにすることを自分の人生の使命としたい。
この考えは、強者のものなのか?
強者の定義そのものを考えねばならないが
いま世界で「流行っている」豊かである、恵まれている、ということの定義そのものを見直して、
果たしてあの人は本当に強者なのか、考え直さねばならない。
この課題提起自体が、恵まれた強者のものなのか?
哲学者の本を読んで、こういう抽象的、形而上的なことを言語化する能力を吸収したい。
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