数値化される感情、自己矛盾を抱えた夜
ーー名残惜しいけど、もう帰らなきゃ。
ロングスカートの裾を翻し、私は宵を目前に控えてなお白熱する会場を後にした。九月十八日、私はゲンロンカフェに足を運んでいた。東浩紀さん、桂大介さん、安野貴博さんの三名が『民主主義は本当にアップデートできるのか?』というテーマで熱い議論を繰り広げる。残念ながら私は前半の四時間半で席を立ったが、それでも心は揺さぶられ、脳は疲弊するほどに満たされた。
「ド文系データサイエンティスト」。文学や美術を愛しつつも、AIを推進するこの自己矛盾を抱える私は、文理の境界に関する議論に心を奪われた。冷たいデータと人間の感情が交差し、どこか曖昧にぶつかり合う、その瞬間を目の当たりにした。
安野さんが用意した都知事選振り返り資料は見事に整理され、美しかった。「この量は誠意があるよ」と東さんが冗談混じりに称賛した。彼の「設計図」が垣間見えたことにワクワクした一方で、私は次第に重たい気持ちになっていた。
安野さんが冷静にスライドを説明している間に、東さんがいくつか意地悪な(でも愛のある)質問を投げかけた。その中でも、「データサイエンティストはいくらでも詭弁を語れる」という指摘が最も印象に残った。私は思わずニヤリとし、安野さんの表情をうかがった。データを扱う者なら、その言葉の重みを知っているはずだから。安野さんは毅然として「ログを残しています。同じ分析モデルを使い、恣意的ではない」と返答した。ど真ん中。これ以上ない正論だ。その回答に、東さんは笑いながら「君たちすぐそれ言うよね!」と返したが、このやり取りこそ、まさに私が日々直面する葛藤そのものだった。定量的な視点と定性的な視点の対立が、鮮やかに浮き彫りにされ、一枚の絵のように目の前に広がるようだった。
言葉が数値化される時代が来るなんて、考えもしなかった。しかし今、大規模言語モデルが普及し、言葉が単なるデータに変わり、感情や美しさを失ってしまうリスクが現実のものとなっている。文学や思想、歴史ある文化芸術さえも数値に変換されることは、果たして正しいことなのだろうか?効率化がもたらす恩恵は大きいが、そこに潜む美しさの喪失が心に刺さる。
データを集め、不要な情報を削ぎ落とし、サマライズするたびに、私は言葉が潰れてしまったような感覚に囚われる。息をしていない。それでも意思決定には必要な工程だ。生データをそのまま使うことは無謀すぎる(時々、「なぜそこに電話番号を…?」と頭を抱える瞬間もある)。
自然言語処理が絡むと、どうしても言葉から感情が剥ぎ取られてしまう。整然と並んだ単語の羅列は、まるでミイラが並んでいるように思える。美しく”整えられた”ミイラを引き連れて担当者たちの前でプレゼンテーションを行うが、首を傾げられることも少なくない。説得力に欠けるのだろうか。私の説明が下手なのかもしれない!と自嘲しながらも、笑って誤魔化すしかない。あくまでも分析手段にすぎないコトに対して、いちいち痛みを感じるなんてバカみたいだ。
機械のように感情を排し、冷静に意思決定できる人が羨ましい。
経営層に近づくほど、彼らの意思決定が効率的かつ正確であることに気づかされる。「君はもっと事実と感情を分けて考えなければならない」と叱られたことも、今はよく理解できる。感情や雰囲気、情緒は、ビジネスの場では邪魔になる。でも、それでも私は、人間がもっと生々しい言葉を必要としているのではないかとも思う。言葉を乾燥させ、感情を排除して判断を下すことが本当に正しいのか?削除された「声」は本当に不要だったのか?たった10文字に圧縮された「声」に込められた意味を無視していいのだろうか?生のデータには、表面には見えないニュアンスや感情が詰まっている。それを無視してしまってもいいのか?感情の揺れや、深い意味がそこには確かに存在している。効率を追求するべきだとしても、無駄に見える部分こそ、人間の本質を伝える鍵なのではないだろうか?
人間は情報の集合体だから、結局は本質に戻っているだけなのかもしれない。では私たちは、ただの数バイトの存在?いや、そんなことを考えている自分自身が、すでに無駄なのかもしれない。言葉は特別なものでなく、私たちが知性だと思っているものは機械で再現できる。ただの錯覚ではないかーー。
翌日、出勤している間も私はその疑問を抱えたままだった。とある企画の振り返りミーティングで、担当者たちに結果を説明しても、彼らの反応は硬く、ミーティングルームには重い空気が漂っていた。皆一様にPCを眺めて険しい顔をしている。そこで、私は試してみたくなった。
「あの、少しだけ無駄なお話しをしてもいいですか?」
PCを操り、パージデータの中から恣意的に選んだ、生の感情が込められた声を読み上げる。美しく整えられていない、ありのままの言葉を。
「…マジすか」
その時、担当者が初めて笑顔を見せた。ミーティングルームの空気が変わると同時に、人の表情もわずかに柔らかくなっていく。たった一件。そのたった一件の声が、人の心を動かす。それは、効率的に処理されたデータには決して宿らない、本物の感情が宿っていたからだと思う。人間は数字に従うだけの存在ではない。言葉、声、そして心の揺らぎに、私たちは何か本質的なものを見出すのではないか?私は人間の曖昧で不完全な部分を愛している。同時に、そんな曖昧なものに流される人間の弱さに危うさを感じている。私は今日も効率的にデータを処理する仕組みを考え、沢山の声を処理するだろう。しかし、その裏で忘れ去られた声や切り捨てた言葉に耳を傾けるのを忘れたくない。自己矛盾を抱えたままでも、それでいい。矛盾に苦しむこと自体が、人間らしさの証なのだから。データサイエンティストがいくらでも詭弁を語れるのなら、私は人の気持ちに寄り添い、言葉を蘇らせる方法を模索する。たとえそれが非効率で感情的だと笑われても。
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