間違えたっていいじゃない、機械じゃないんだから
ピアノ弾きます、クラシック好きです。
というと、ああ高尚なご趣味ですね、お嬢ですねーと揶揄されがちだ。
でも、待ってください。私の信条はフジコ・ヘミング氏なのです。
弩級のロックンロールだぜフジコ氏。私も思うのだ。
エレガント上等、だがドレスの下には武器を持て。
そんな気質故に、譜面通りに寸分違わず弾け!が信条の先生とは相性が悪かった。
ショパンに聞いたんですか?先生、バッハの友達なんですか?19世紀に流れている時間と今の時間感覚は違いませんか?だから休符も違う可能性ないですか?私が抱いている今この瞬間の感情は無視ですか?じゃあ誰が弾いても良くないですか?と本気で思ってしまうから。
この考え方は今も変わっていない。19世紀のサロンで優雅にドレスを着て聴くリストと、21世紀の労働で疲れ切った体に偶然飛び込んできたストリートピアノのリストは、時間の流れも受ける印象も異なるだろう。演奏者や聴衆の状況が「時間の相対性」を作り出しているかのように、19世紀の貴族階級が優雅に感じたリズムと、今の私たちが感じるリズムでは、同じ音符でも意味が異なるに違いない。
それなのに、全員が寸分違わず同じ演奏をして一体何が楽しいのか、音を楽しむ?嘘でしょう、つまらん。もちろん、最低限の練習をせずに甘えるのは間違っていると思う。コンクールで勝つには正確な演奏が求められる。無軌道と自由は違う。
だが、今は機械に楽譜を学習させれば、ミス一つなく完璧に演奏することができる時代だ。技術的に正確な演奏は、もはや人間だけのものではない。
では、機械の演奏にはないものとはなにか?それは「不完全さ」の中に宿る感情や魂だ。寸分の狂いなく再現された音楽では、心を震わせることはできない。
ヒトの演奏の価値ーー。
私は今、改めてフジコ・ヘミング氏の演奏会へ赴いた日を思い出している。
あれは邪道だと首を捻る専門家やピアニストが多いことは知っている。メディアの演出で実力以上に良く見えることがあるのも知っている。素人でももっと上手い演奏が出来るという意見も、その通りだと思う。だが、今まで全く音楽に触れてこなかった、クラシックなんぞ聞かんわ!興味ない!という人までもが、ふと耳にして心を揺さぶられ涙する。これは何にも変え難い”音楽の価値”だと思う。
実際、彼女の演奏会には、クラシックのコンサートに不慣れな人々もいたが、それが良いのだ。堅苦しくなく自然な姿に、フジコ氏の演奏会らしさがあった。
確かにフジコ氏はミスタッチが多い、超解釈すぎる、とツッコミどころは満載なのだ。でも、私は譜面上の細かい指摘など、どうでもいいと思っている。頭の中の譜面は一旦忘れることにしている。知っているからこそ見えてしまう点で心を濁らせたくない、知らずに心を震わせている方が、何倍も尊い体験であることか。
フジコ氏の奏でる『ラ・カンパネラ』は何物にも変え難い。私は彼女の「ぶっ壊れそうな鐘」が好きだ。機械的ではない、人間が奏でる演奏だ。
聴衆がこれをメインに聴きにきていることは明らかだった。会場の集中力が違った。静まり返る会場に、遠くから教会の鐘の音が聴こえてくる。
これは今日、この瞬間の、彼女が作ったカンパネラなのだ。音を伝って、魂を聴けばいいのだ。彼女の演奏には強烈な痛みと赦しがある。弾きこぼした音達も、跳ね返って私たちの心の奥底に沈殿した痛みや悲しみを浮き上がらせていく。隣に座ったご夫婦は、ハンカチで目を覆いながらフジコ氏の方を眺めている。
なんの悲しみも間違いもない人間なんているものか。情感豊かな鐘の音に、国籍も年齢も性別も立場も異なる聴衆の心が剥き出しにされていく。彼女の演奏は会場を痛みの受容器として機能し、忘れ去った感情が心の奥底から浮かび上がるような体験を与える。そして満杯になって溢れ出しそうな各々の悲しみに、フジコ氏は最後、畳み掛ける旋律で答える。
間違ったっていい、ぶっ壊れそうでもいい、だって私たち人間じゃない?と。
長年「ブラボー!」と起立して拍手する文化を洒落臭いと斜に構えていたけれど、気づけば私も立ち上がって拍手をし、周囲の人々と同じように「フジコ!」と叫んでいた。
あの日のアンコールは、シューマンの『ペリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進』だったと記憶している。悲しさは感じられない明るく勇ましい曲なのに、手にしていたパンフレットに落ちる涙が止まらなかった。
心を震わせる演奏は、今のところ人間にしか出来ない。
今のところーーが、悲しい部分ではあるが。
私達はそれぞれの不完全さを受け入れ、自分自身の音を世界に響かせるべきだ。いきなり完璧に出来ていなくてもいい。それこそぶっ壊れそうでもいい。その不完全さがいま美しく、人間らしい・自分らしい価値だ。
まずは自分にしか鳴らせない音を、恐れずに思いきり鳴らしてしまえばいいじゃないか。私も、そしてあなたも。