人生ではじめてエッセイの朗読をきいて、じんわり涙が出てきた話
人生ではじめて、エッセイの朗読をきいた。
エッセイを朗読する?
公演に参加する前のわたしは、小学校のころの作文発表会や、ラジオで用意された文章を読むこととは違うのだろうかと思っていた。
結果、全然違った。
声色や声量、スピード、ときに目線を変えたりしながら朗読する様子は、一定のスピードで続く音読よりも、映画やアーティストのライブを見ている感覚に近かった。
そして、後半になると涙が出てきて、自分でびっくりした。終わったときには1時間が過ぎていたことにも驚いた。体感では20分くらいだった。
数日たった今、どんな涙だったのか考えたくて、このnoteの投稿ボタンを押してみる。
共感と差異を感じた1時間
5名が書いたエッセイを、書いた本人によって朗読する会だった。
会場に足を踏み入れたときは、「エッセイを読むって楽しそう!書いた文字を目ではなく耳で聞くとどんな感じになるんだろう。わくわく!」なテンションだった。
でも、はじまってみるとじんわり涙が出て、終わったあとに演者に感想を伝えるときにも、言葉を詰まらせてしまうほどだった。
なぜ、涙が出たのか。
最初の感情は、エピソードへの共感だった。次いで、感動の波がやってきた。
パートナーとの話、わたしの世界にも似た経験があるぞ。
投稿ボタンを押すのが怖い気持ち、わたしにもあった。
でも待って。今の表現、わたしの辞書に載っていない言葉だ。
本人が書いた文章を朗読することは、こんなに没入感があり、文章を読むときとはまったく違う感想を抱くのかとびっくりして、感動した涙だったのだと思う。
演者にあってわたしにないもの、その差異が、演者らしさであり、エッセイというジャンルの奥深さなのかもしれないと感じた。
エッセイの朗読は、今を生きる書き手(話し手)の人生描写だった
5名のエッセイは、それぞれが「今」書きたいエッセイなのだろうなと感じさせるほど多様だった。ただ、普段は取り上げない日常を話題にしたり、自分でも言葉を見つけていなかった感情を表に出したり、「放っておくと自分でも見つけられない気持ち」を拾っている点は共通していた。
トップバッターの野やぎさん。
「朗読はこれほど勢いがあり、圧倒されるものなのか」と引き込まれた。
朗読と音読の違いを体現していて、イベント全体の没入感は野やぎさんが作ってくれたのだと思う。
野やぎさんが朗読をしたエッセイがnoteで投稿されているので、ぜひ読んでみてほしい。
続いて、このイベントに行くきっかけになったまーちんさんの出番。
まーちんさんの朗読は、いつものように本人から話しかけられている気持ちになった。
だんだんと、日頃から応援しているバンドマンが、初めて屋内でライブをする様子を見守る古参の気持ちになっていた。
3人目は、池田祐子さん。
もっとも、わたしの日常に気づきを与えてもらったエッセイだった。自分と似た日常を過ごしているのに、わたしには気づけていなかった幸せがあった。
4人目は、百合さん。
「浮遊する星屑 -空に落ちる前の言葉-」のタイトルを回収するエッセイだった。言葉の強弱も、スピードも、間合いも、わたしにとってはすべて意味を持っていた。
ラストは、朗読会の主催者・鈴木ユースケさん。
わたしは今年、対話を練習する場所「対話のコミュニティ」に所属し、聴かれてうれしかった経験をたくさんした。自身の背景と重ね合わせ、聴かれたい想いはこれほど素敵な場所に進化していくのかと、「聴く」ことにアンテナをもっている自分でよかったと思った。
あの場所で本人から受け取ったから、涙が出てきたのかもしれない
ここまでが、イベントを終えた翌日までの感想。
朗読会では、5名が書いたエッセイの原稿が販売されていて、文章を書くわたしは、「この感動を文字でも読みたい!」と思い、家に迎え入れた。
エッセイに感動したことは大前提(強調!!)で、言葉選びが難しいのだけど、もし5名のエッセイを目で読んでいたら、わたしは泣かなかったかもしれないと少し複雑な気持ちになった。
あの場所で、本人から受け取ったからこその没入感があり、共感があり、感動があったゆえの涙だったと思う。自分に当てはまりすぎて、文章を目で追うときは逸らしてしまうような言葉も、朗読では逃げることができない。だからこその感動。
原稿を読み終えたわたしは、「本当の意味で文章を読めていない」と思ったのだ。
すばらしい文章だな。
おもしろいな。
あーわかるわかる!
文章を読んでいろんな感情が顔を出すけれど、文章を目で追いながら、常に次の文章を視界に入れている。次の文章の文字が大きかったり、余白を持たせて次の文章が書かれていると、どうしても先に見てしまう。自然と展開を読んでいて、意外性や感動の芽を自分でつぶしてしまっているのかもしれない。
もちろん、文章のすべてが「泣ける」という評価軸ではないし、「目で読む」行為は次の展開を把握しながら読むから、「耳で聞く」よりも早いスピードで情報を取り入れることができるのだと思う。でも、もっと、文章を隅々まで読めるようなわたしでいたいと感じている。
私はこれからも文章を書き続ける人でありたいし、文章を目で追っていきたいし、人の話をきいていきたい。インタビューをするときに、自分の琴線に触れることだけ汲み取っていないか、立ち返る機会をもらった。
空に落ちる前の星屑のようにまだ名前のついていない言葉たちは、わたしの中にもきっとたくさんある。少しずつ拾っていきたい。
あの場所に居合わせることができてよかった。