vipassana
vipassana(ヴィパッサナー)瞑想とは
2500年前にブッダが提唱した瞑想法で
当時の言葉で「洞察」という意味を表します
後にブッダとなる “ゴータマ=シッダッタ“ は
大自然の中の 木の下で生まれ
五歳になった頃その木の下で
自分自身の呼吸を観察し始めました。
そして35歳になった時、
この瞑想を経て 完全な悟りに至り
ブッダとなりました。
そして慈悲の気持ちから、
この瞑想法を人々に伝え始めたのです。
人は常に 外側の世界だけを見ており、
何か問題があったときに
外側の世界だけを変えようとします。
自分の内にある現実に、眼を向ける事はありません。
ですが、問題の根本は 自分の内側の深い部分にあり
それらに向き合わなければ、何の解決にもなりません。
ここでは最初の3日間で
自分の呼吸を観察し、
あとの7日間で
身体の全てを観察し続けます
そしてその 現れる全ての「感覚」に対して
「反応」を起こさないという訓練をします。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚 など
生命があるところには、全て感覚があります
感覚器官 のないところには 感覚は起きません。
髪の毛には感覚器官は無いので
そこに感覚はありません。
しかし、ある人が あなたの髪を
『なんだその変ちくりんな髪!』と
侮辱し、罵ったとしたら
その言葉を 耳の感覚器官が意識します。
そして人はその言葉を
「嫌悪」や「憎悪」「怒り」や「憎しみ」
として反応をします。
そして人はその「嫌悪」という感情を
排除したくなり、追い出したくなります。
これが「渇望」となります。
「嫌悪」と「渇望」は表裏一体で
コインの表と裏の様な 存在です。
やがてその渇望は
どんどん増していき、
渇望が渇望を 呼びます。
これが「執着」の始まりです。
心地の良い感覚も また同じです。
人に褒められた時、あるいは
気持ちの良い感覚に出会った時、
その心地の良さは
「もっと欲しい!」という
渇望 や 欲情 を生み出します。
渇望がさらなる渇望 を呼び
これもまた「執着」の始まりです。
依存や執着してしまう原因は
その依存先の特性であるのではなく、
自分の内側にある 古い心の癖 に存在しているのです。
人生には良い時もあれば、悪い時もあり、
良い人に出会えば、嫌な人にも出会います。
波があるのが人生で
その現実を受け入れなければなりません。
どんな生命にもそれは共通していて
良い時もあれば 悪い時もあり、
それらが永遠と続くことは有りません。
それが自然の真理なのです。
この大自然の真理を、
ここでは大自然の中で
自分の体験を持って学ぶ事が出来るのです。
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