貼られたレッテルに救われた話
思えば、他人に迷惑をかける事を恐れ続けて生きてきたような気がする。
待ち合わせの場所には30分前につかないと落ち着かないし、15分前にはもう、目印の場所に立っていなければとすら思う。
借り物のカギは神経質な程にカバンにつなぐし、誰かと共有で立てた予定はカレンダーアプリ、1時間前アラーム、30分前アラーム、時には10分前アラームまでセットする。
予定がズレるのは不快だ。特にそれが自分起因で起こった事象であれば特に気に喰わない。凄くイライラするし、気にする。
何より恐ろしくて堪らないのだ。
自分が把握していない中で誰かに「お前が悪い」と言われる要因を作った気がして。そのリスクのあまりの大きさに気を配らずにはいられないのだ。
人とズレたところで共感しがちな僕は、「普通への鈍感さ」には自信がある。
僕と同じ思考で同じような振舞いをする人を見たことが無い。
「人に迷惑を掛けたくない」というそこまでは同じでも、その感情が生まれる根源にはびっくりする程に差があることを僕は、経験則として知っている。こと人の感情については僕の推測は悉く外れる。
だからこそ、全てに警戒して、要らないところで疲れて面倒になって、それでも最後までやらなきゃと頑張ってはまた、「冷めてるね」と言われて萎える。
叱られることが怖い。
何でかってそりゃあ、「叱責」を聞いている間に浮かぶ幾千もの「反論」や「不満」を噛み下し、呑み込みながら、スミマセンと相槌を打つのが死ぬ程嫌だからだ。
勿論、理不尽じゃないことは平気だ。真っ当に怒られるのは誰よりも得意だ。
自分が合理的でないと怒られたときは「こういう経緯で僕はこういう選択をして、結果的に間違えました」と説明してから改めて怒られたい。
全ての決断には必ず判断基準があって、僕は一度だって適当だとか勘だとかで判断したことはない。
すべてを聞いた上で結果を出せなかった叱責をするのなら甘んじて受ける。
それでも、理不尽で理解しがたい理由で怒鳴られたとき。
噛み付いたって得はしないことが解っているから、スイマセンと口にする。
握り締めた拳の中で僕が死んでいく感覚が堪らなく不快で、ぞわぞわして、吐き気がする。
あぁ、もう、コイツぶっ殺してやりたい。まぁ、やる訳無いけどそんぐらいお前が嫌い。
そんなことを思いながら口にする己の殊勝な言葉が薄っぺらくて、醜くて、自分の口から出ている事実に反吐が出る位だ。
だから、予防線を張る。
僕が悪くない理由を作る。
貴方にとってはそれは正しい理屈かも知れないが僕にとっては全く以て理解不能、そんなことが起こった時、他でもない僕自身がその相手を攻撃しない為に予防線を張る。
前提条件のすり合わせのうちに価値観の違いに気付ければ怒らなくて済むし、時間も節約できるし、相手も怒鳴らなくて済む。
そう思って納得してきた人生を、「INTJ」という言葉は肯定してくれた。
「INTJは世界一辛辣な皮肉屋である」と、「INTJは現実に対して冷笑的な見方をしがちである」と。
極度に前提条件のすり合わせをしたがる僕に疑問を抱いた僕の親が「なぜそんなにしつこく聞くの?」と僕に訊いた。
前述の価値観を僕が親に語った時、彼女は「それはちょっと穿った見方をし過ぎじゃない?普通はそんなに怒鳴る人ばっかりじゃないよ」と言った。
あぁ、解り合えないんだな、と思った。
万が一にも避けたい事象に対して多重に予防線を張るのはおかしいだろうか。
それとも、その「普通の人」達は理不尽に怒鳴られても大人しく傷ついて、友人と愚痴を言い合って、すぐ気持ちを切り替えられるって言うのか。
そんなことは僕には出来ない。
みんなが人を見下すなって言ったんだろ。見下さないように足掻いてるじゃないか。「この人は僕とちょっと違うタイプなだけで話が通じない人間なわけじゃない」って自己暗示を掛け続けて、頑張って見下さないようにしてるじゃないか。
自分が知らない内に、相手にとって「理不尽に怒鳴る人」になりたくないから、理解不能な理屈でも一旦は聞いて、その裏付けや理由を聞いているじゃないか。僕はそうやって行動しているのに、アンタらは多数派ってだけで自分の理屈で怒鳴るじゃないか。クソッタレ、気遣いを返せ。合わせようとした気持ちを返せよ。
僕にとって規則や規約は「これを守ってさえいれば攻撃対象にはならないことリスト」以上の意味は無い。だから変えようとする事もあるし、そうなったら議を取って賛否を決めたいと思うし、説得を重ねて賛同を得ようとする。
一人じゃできないことだらけの世の中で、多くの人は理解できないものを嫌う。多数に合わせれば皆が「正しい」と言ってくれるからだ。
何も努力しなければ嫌われ者になる僕が必死こいて編み出した処世術マニュアルを、
マジョリティは「人を悪く捉えすぎ」だとか言う。
僕を悪者にして勝手に納得しては、「勘繰る事が失礼」とでも言いたげな顔をする。
それでも時間は経って、僕は理解を諦めた。
「note」は僕にとって、凄まじく居心地が良い。
生き辛さを吐いたって誰も見ていないような雰囲気、たまにボトルシップで誰かの元に届くような偶発的な出会い。
長文を書いても無駄にならない心地良さ。
小学生の頃に読んだビジネス書の中で語られていた一文をふと思い出した。
「人間は相手が自分について極めて深い理解をしてくれたと感じた時、そのことに対して歓喜し、相手を好きになり、対価を払いたいと感じるようになる。」
あの時の僕はこの文章を読んで「そんなの嘘だ」と思っていた。共感という体験に無知過ぎて、自分が相手に理解されるだなんて只の嘘っぱちだとすら思っていた。
僕はnoteで同じように内向的で、同じ性格傾向を持つ人の記事を読み、別に自分について書いている訳でもないその記事に対して歓喜し、相手を好きになった。
こういう事か。なるほどね。
出来心で調べて診断した「16personalities」というサイトが、MBTIという理論が生み出したレッテルが僕を救ってくれたのだ。
僕にだって、誰かに共感することが出来ると教えてくれたのだ。
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