星野源「光の跡」を通して、希望と地獄を受け入れる
思えば幼い頃からなんとなく生と死について考えていた気がする。
というと重く捉えられそうな気がするが、そんなに重いものではない。
せいぜい自分が死んだらどこに行くのか、とか自分で望んで生まれてきたわけではないのになぜ今生きているのかとか、そういう誰だって考えるであろう、答えのないことを考えるのが好きなのだ。
大体こういうことを考えていると途中で怖くなるか(妄想が膨らみ過ぎてモロモロ泣きつづけるレベル)、こんだけ考えても産み落とされた以上もう生きるしかないのだ、と考えを放棄して考えるのをやめる。
生きるということは死ぬことで、それを正面から見つめるのはとても体力がいることだし、怖い。
自分のことだろうと、他人のことだろうと死を受容するというのは私にはまだできない。
たぶん、この先も無理だろう。
自分がなぜ星野源の歌詞に惹かれるのかを考えた時、
・世の中を綺麗なものだとは捉えきっておらず、無理にそれを明るい方向や希望へと捻じ曲げたり、対抗しようとしない。
・「死を前提とした生」の考え方が根底にあるから
だと思った。
例えば『不思議』の「君と出会ったこの水の中で」「きらきらはしゃぐこの地獄の中で」、『地獄で何が悪い』の「無駄だここは元から楽しい地獄だ」、『しかたなく踊る』の「今もまだ生きてるんだ 素晴らしいさ このクソの中で」といった歌詞。
この世の中に対して「水中」「地獄」「クソ」というように息がしづらいものという判定を下している。
ただその後には「地獄で生きていく」ということを、小さな明るさや希望で受け止め受け入れようとする動きが見られる。
先述の『不思議』(君と出会ったこの水の中で 手を繋いだら息をしていた ただそう思った)なら
「君と出会い手を繋ぐ」こと(=小さな希望)で「息ができるようになる」。
小さい希望を見つけることは地獄で生きることを受容する、第一歩だ。
この動きは新曲「光の跡」にも見られる。
同じくSPY×FAMILYの主題歌だった過去作「喜劇」と比べると「喜劇」が日常が続いていくことを謳っているのに対し、「光の跡」は終わりを歌う。
あくまで個人の解釈としてこの部分を考えてみる。
窓を開けて 風に笑み 意味なく生きては
(=自分を世間に開き、表面的に笑い、毎日をすごしては)
陽射しを浴びている
(=明るいこと、希望に自分が覆われる)
「陽射しを浴びている」という受け身的表現なのを考えると、地獄を生き抜き、受容するための小さな希望や煌めきは自分で掴みにいくというより、ふとした瞬間に目の前に現れる、ということではないかと思う。
地獄に生きるものとして小さな希望やそれを見つけた時の心の動きはこれから生きていく上でどこかで必要になる。
水中なら酸素ボンベの役割を果たす役割として、自分が水中で息をし続けるためにも小さな希望や煌めきを「忘れたくない」と思うのではないか。
そしてそれが結果として「忘れたくない思い出」となり、自分の中に貯まっていく。
「死」という怖く平等な終わりがある時、この小さな希望や煌めきが終わりへ向かう(=未来へ生きる)ための、目の前の意味となるのではないか。
どうせ消えてしまうからこそ、目の前の小さな希望を愛でたっていいのだ。