【小説】二番目のシンデレラ -73-
ミチルが家を出てから、二時間近く経とうとしていた。
市役所からもどったミチルは、財布だけを握って、リビングにいたシズエの後ろに立った。シズエは、リビングの大きな窓から庭を見ていた。
「お母さま。住民票は、委任状がないと――」
「ドブネズミなら、保健所に処分してもらいましたから」
「え?」
シズエがなにを言っているのか、わからなかった。
「ネズミは、処分しました」
シズエはふり返った。ゆっくり顎を上げると、ミチルを見おろした。ミチルの握っていた財布が、ゴトンと床に落ちた。
「えっ……」
ミチルは、わからなかった。どこを見ているのかも、なにを考えたらいいのかも。ただ、カクカクと震えだした左手を、右手でなんとか抑えようとしていた。
「そうそう。ソファにあった紙くずの束も、処分しておきましたよ」
シズエの声は、笑っているように聞こえた。『部屋を掃除しておいてあげましたよ、あなたのためにね』と言っているように。完全な善意であるかのように。
ミチルの理性がひび割れた。
ボロボロと剥がれ落ちていく。
ひびの隙間から、感情が滲み出した。
悲しい、ちがう。
悔しい、ちがう。
憎い、ちがう。
ちがう、ちがう――。
ぐるぐるとまわる。ぐるぐると。
全部の色鉛筆を同時に握って、ぐるぐると。
心の中で勢い任せに、ぐるぐると。
黒とも茶ともいえない濁った色で、心が塗り潰される。心はそこにあったのだろうか。心はどこにあったのだろうか――。
「楽しむだなんて、あなたには過ぎたものですからね。生活できているだけで充分でしょうに。なんの不満がありますか。食べるものも、寝るところも与えてやっているのに」
「やっと、思い出したんです。やりたいことを」
「そんな、なんの役にも立たないことをしていないで、もっと、きちんと家事をこなせるようになさい」
「でも――」
「でも、なんですか。あなたが、そんなくだらない夢をみたせいで、ネズミは処分されたんですよ」
「そんな……」
シズエは、リビングの扉に向かう。ミチルのとなりで立ち止まると、静かに呟く。
「言われたことだけ、していればよかったものを」
リビングの扉が閉まる音がした。