同期が同期をやめる日に
同期が会社をやめる。
彼があの椅子に座るのは今日が最後だ。
同時期に中途入社で入った彼は、課こそ違うものの通路をはさんで僕から見て斜め前の席にいる。
入社したての頃は、すれ違いざまに前の会社はどんなだったとか、この会社に慣れたとか慣れてないとかいろいろなことを言い合った。
同時期入社5人のなかで彼とは年が近く、隣の課ということも相まって、時間があえばランチに行ったり仕事終わりに飲んで帰ることもあった。
そんな彼が転職活動をはじめたのは、入社して4年目に入った今春だ。
僕も彼も思うように昇進ができず、どちらともなくぽつりぽつりと会社への不満を口にすることが多くなった。そんななか、彼が転職を考えはじめたと言い出したのだ。
「次の会社、決まったんだ。」
彼が言ったのは夏のはじめだ。もう夜になろうとしているというのに、セミがうるさく鳴いていた。
「退職届を出すときに交渉しようと思ってるけど、9月末にはやめたいと思ってる。残っている有休を使うなら、会社に来るのは8月いっぱいかもしれないな。」
ここ数ヶ月間は、なんでもない話題の合間に彼の転職活動報告が挟まれることが多かった。僕だったら途中経過で、しかもうまくいかなかったことは口にできそうにないが、彼は良い結果も悪い結果も包み隠さず話してくれているように聞こえた。
彼がやめることはきっと、会社で僕が誰よりも早く知っていた。いなくなることの心の準備のようなものだって、一番にはじめることができていたはずだった。
それなのに、今朝から各所へ挨拶をする姿や残作業をする背中を見るのがつらい。
今日でいなくなるのだという事実がまっくすぐに僕に突き刺さり、弱々しく彼を見つめることしかできない。
退勤時間が近づいてきて、いよいよ彼は荷物をまとめて最後の挨拶をした。
彼の流暢な挨拶は清々しく、残る者に全く不快感を与えないものだった。途中、彼と目が合ったが、どんな顔をしてよいものかわからずそらしてしまった。
同じ課の女性社員から花束を送られ、しばらくすると、別れを惜しむ声に見送られながら彼はフロアを出て行った。
彼とは隣駅の居酒屋で飲む約束をしていた。
僕も急いで支度をして彼のあとを追うことにする。
鞄を持って立ち上がると、入社したあの日と同じようにまっさらで何もない彼のデスクが目に入った。
あの日の彼は僕と同じように、これからこのデスクに何を置き、どう使おうかと考えを巡らせたのではないだろうか。それが今では彼の気配が残った空き部屋のようでなんともやるせない。
「お待たせしました。」
焼き鳥屋の奥まった席に彼はいた。この店は彼のリクエストをきいて僕が予約をした。隣の椅子には先ほど贈られた花束や会社に置いていた私物を入れた紙袋が置かれている。
「挨拶なんてなにを話したらいいかわからないし、緊張したよ。俺、ちゃんとしゃべれてたかな。」
いつものように彼は話だし
「いつもと変わらず流暢にしゃべってたくせによく言いますよ。それにしても、退職届出してから今日まで早かったですね。まだ1ヶ月近くあると思ってたらもう最終日で。」
僕もいつもと同じように話しはじめる。
生ビールで乾杯をしてからはいつもどおり、とりとめもない会話が続いた。
ビールとつまみで腹が膨れてきたなと思っていると
「野心を忘れるなよ。」
ビールジョッキに手をかけたまま彼が言った。
「いや、ちょっと違うな。野心は忘れちゃいけない。けれど、金や地位、名声があれば幸せかといえばそういうわけでもないと思うから。
それでもさ、人生は一度きりだから、俺はまだまだ挑戦したいと思ったんだよ。ここで立ち止まりたくないと思った。だから転職を選んだ。
人によっては俺みたいに仕事じゃなくて、それが趣味だったり恋愛だったりするんだろうけど。
なによりも大切なことは、自分が幸せになる方向へ進むことだと思うんだよ。やりたいと思うこと、行きたいと思う方向へしっかりと進むことだと思うんだ。そういう野心ってやっぱり忘れちゃいけないと思う。
俺、早瀬には幸せな方向にいってほしいな。
この会社に入って何が楽しかったかっていうと、早瀬と毎日くだらないこと喋ってたことだった。正直仕事きつかった時期もあったけど、早瀬としゃべってるうちにここまできてたよ。」
突然の彼の言葉に整理がつかない。
僕だって今日、彼に伝えたいことはいくつか考えていたのに、ふいに先を越されたくやしさと、思いがけないことを言われた衝撃で頭の中が真っ白だ。
「ところで最近、なにか楽しいことはあった?」
彼は間髪入れずに言い、僕はなにも言えない。
さっきの話はなんでもないことのように流すつもりなのだろうか。
ゲームでもテレビでもなんでもいい。仕事のことでなくてもいい質問なのに、言葉につまって言い淀んでいる僕に
「早瀬ならできるよ。」
だから大丈夫なのだ。一足先に行ってみるから。と言わんばかりの彼の声が届く。
僕には熱くなる目頭を悟られるまいとすることしかできない。
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