人生の前半戦が終わった。
今日で遂に40歳になった。人生の半分が終わったと言っていい。色々思うところをFacebookに書いたので、せっかくなのでnoteにも久しぶりに置いておこうと思う。
本日、ついに不惑に突入。40か。信じられない。30になった時に僕は、「子供の頃に想像できた“自分が大人になった姿”は20代までだった」と書いた。それからさらに先の未体験ゾーンに突入。さて、これからどうなるだろうか。
ここ最近はというと、直接会った人にはよく話しているのだが、僕自身はもう終活に入った気で生きている。別にネガティブな気持ちで言っているわけじゃない。死を想うことは、生を見つめることと同義だ。
日本人男性の平均寿命が約80歳なので、今、ちょうど人生の折り返しの年齢。これから先は後半戦だ。収束に向けて行動していてもおかしくはないだろう。「終活などは70代半ばあたりからゆるりとしたらよいのだ」と言う人もいるかもしれないが、それではちょっと遅いんじゃないかなと、個人的には思っている。
例えば、ONE PIECEという漫画は100巻以上出ているが、それをあと5巻でまとめろと言われても、きっと難しいだろう。打ち切りのような強引なまとめ方をすればいけるかもしれないが、それは作者の本意の終わり方にはならない。伏線を丁寧に回収し閉じようとしたら、話を広げたのと近しい時間がかかるのは道理ではないかと思う。
では人生において、伏線のように「回収すべきもの」とはなんだろうか。僕はそれを「本当にやりたいこと」だと考えている。
前半戦、さんざ色んなことをやってきて「自分が本当にやりたいこと」はもう出揃った。後半戦はそれのみを追求するライフスタイルを作ろうと思っている。これ以上は無理に広げようとせず、興味の持てないものや苦手なものへの道筋は閉じていくのだ。
その「やりたいこと」とは具体的には何かというと、僕の人生においては、たった3つ。「デザイン」、「ドローイング」、「文筆」だ。今後はこの3つを突き詰めていく。これらをキチンとまとめ、考え続け、アーカイブして逝けたら、それで幸せだ。
「デザイン」については、ありがたいことに今現在も生業とさせてもらっている。このまま途絶えさせないように、これからも誠実に向き合っていきたいと思う。
あと2つの「ドローイング」と「文筆」だが、これはもう自分でやろうと思わないとできないので、今現在も鋭意制作中だ。人間、やったことの先にしか道は開けないので、とりあえず始めている。早速来月の12月に個展をするので、いくつか発表できるはずだ。その話はまた今度しようと思う。
ともあれ。僕は20代の頃によく「金太郎飴のように、どこを切っても「幸せ」という人生でありたい」と言っていた。
人生においては、明日やりたかったことをやれずに死んでしまうのが、「悲劇的」とされる。「俺…この戦争が終わったら結婚するんだ」というやつで、こういう「未来への期待とそれが達成されなかった後悔」は、物語を悲劇的に見せるエッセンスとしてフィクションでも多用されるほどだ。
これはつまり、期待を未来に置いておくのがよくないのだ。だから届かなかった場合、それが悲劇と捉われる。
ここから先の人生の後半戦は、特に何が起きても不思議じゃない。物語は常に閉じる準備ができている。故に「過去」からやりたいことのみを抽出し、常に「現在」に期待し、「未来」を一点に向かい収束させていく。その一点が死であるから、これは僕なりの終活といえるのだ。
「金太郎飴のように、どこを切っても幸せな人生」というのは、できるだけ後悔をせず、やりたいことをやって、例え人生の幕が急に下りたとしても「あー楽しかった」で終われる人生のこと。
そんな人生は「永遠の生」の中にはなく、どこかで「終わり」を意識していないと到達できない。
逆に言えば、「終わり」を意識してさえいれば良いのだ。例え途中で息絶えたとしても、収束に向かう道筋さえ見えれば、その先は補助線によって補完され、完成形は誰かが予見してくれるだろう。
「あいつは志半ばだった」という言葉は、ある種の美化を促すかもしれないが、当事者である自分も含めて、誰のことも満足させてはくれない。
勿論、僕だって人間であるから、後悔や反省、悩みや不安などはある。しかし、それをも覆い尽くすほどの満足感は、「自分は、出来る限り思うように生きた」ということでしかあるまい。そしてそれが生命を謳歌するということなのだろう。
そう、僕の終活の意図は生を見つめること、それによって「生命を謳歌する」ことだ。
「生命を謳歌する」上で大事な条件の一つは、いつでも「選択権が自分にある」と思えること。「選ばざるを得なかった」状況で、人が幸せになることは少ない。「自由」はいつだって謳歌する命の土台に在る。
「自由」とは字の如く、「自らをもって由しとする」ということ。幸も不幸も自分で決められること自体が、俯瞰して見れば幸福なのだ。(なので、社会構造によって人の自由を奪おうとする者があれば、なるべく抗うつもりでいる。)
「人間は自由の刑に処されている」と、サルトルは言った。確かに、完璧な自由は大変だ。全部自分で考えなければならない。「自分」の定義や、存在意義すらも。存在に意味づけをしてくれる神たる存在は不在。
しかし、自由であることは、手段であって目的じゃない。自由自体が僕らを幸せにするわけではなく、必要条件でしかないのだ。そういう意味で自由に期待しすぎてはいけない。
人生は完全に自由であるが故に、時に苦しく、不条理だ。だからこそ、その不条理に向き合い、自分なりに「未来」を収束させていくことをこれからできれば良いと思う。
そして最後には、小説『ペスト』のリウーのように、「今こそすべてはよいのだ」という言葉を遺し、不条理に満ちた生と、やってきた死を静かに受け容れる。僕の人生の末尾も、そういう気分で居ることを願ってやまないのだ。