ゲームは沢山学びとれるものがある その1
序
自分の幼少期、世間的には「ゲームをやるとバカになる」という風評が自然であったように思う。ゲームばっかりで宿題をやらない、とかそういう言葉は、多くの人が耳にしたことのあるものであろう。しかし、この年になって思うに、ゲームを通じて学んだものも沢山あるのではないか。(この年……というには自分は若輩すぎるし、コアゲーマーというわけでもないから、沢山のタイトルをプレイしてきたかというと、首をかしげるところでもあるのだが、それなりのタイトルを、それなりにやりこんだつもりである。)
現在、ゲームに関わる仕事は増加し、さらにスマートフォンアプリ等で多くの人が様々なジャンルのゲームで遊ぶ機会も増えた。ゲームは、形の変わった部分が多くありながらも、変わらない部分として、多くの人を巻き込み、繋げ、楽しませ続けている。このノート片は、ゲームをプレイすることで何を学びとれるかについて、筆者の戯言を書きなぐった(正確にはそうなる予定の)ものである。殆どの人にとって時間の無駄であろうから、今すぐブラウザバックするのが良いだろう。(というのは全く冗談ではないのだが、見てくれると嬉しいというのが包み隠さぬ本心である。)
本論の展開
本論では、まず世代間を繋ぐものとしてのゲーム像を簡単に述べる。次に、ゲームにおいて学び取れるものを抽象論として列挙し、最後に具体的なゲームタイトルと共に抽出される学びを記述する。
子と子を繋ぐゲーム像
学校現場にお邪魔すると、最近は結構驚かされる。少し早めに教室に行って準備をしていると、子供たちの幾人かが輪を作り、スマートフォンの協力プレイに勤しんでいるのである。いや、プレイすること自体は全く驚かない。自分の中高時代も、こっそりとPSPを持ち込んでは狩りに出かけ、こっそりとDSを持ち込んではブォォォォォォォォォンwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwイイィィィイイヤッヒィィィィイイイwwwwwwwwwwwwwwwwwww(マリカしよで調べるとよい)となっていたものだ。驚くべきなのは、彼らはもう隠れる必要がないということである。スマートフォンの持ち込みは許可され、ゲームのみならず、Youtube等の動画を囲んで男子女子はエンターテインメントを共有しているのだ。もう先生が来るかどうかを廊下で監視する人は必要ない。とりあげられてゲーム機を床に叩きつけられる必要もない。(今教員目線で見るならば、そんな取り締まりというのは先生の仕事を増やすだけなのだから、著しく授業を邪魔しない限りは黙認した方が気が楽なのでは、とも思う。)そしてそういう風景を教室に入ってみると、「ああ、いいなぁ……」と感じられる。生徒の自然に笑う風景・楽しさを共有している風景を、大人が自然と見ていてもよいのは心地がいい。(そういえば、まどかマギカの良さをどう担任に伝えるか困った記憶がある。今ならば、スマートフォンでアニメのスクリーンショットを片手に説明すればよいだろう。あの頃はコミカライズを持ち込んで没収してもらうとか考えていた……が、担任に語ったところ「ははは」と笑われて終わった気がする。まぁ、先生にそんな暇はなかったであろう。)
私もエンターテインメントを友達と共有していた。しかし学校において直接的にはする方法が合法的にはないので、(捕まるのを恐れたこともあり)、大抵は「家帰ったら見て!」というほかなかった。また、どうしても伝えたいことは漫画にしていた。たとえばまどか☆マギカのさやかちゃんがあーなっちゃったときは万感の思いでソウルジェムのあの感じやQBのあの感じを漫画にしたし、ダンガンロンパをやっていて1,2章で立て続けに推しがあーなっちゃったときは、そのプレイ様子を漫画にしていた。(こういう落書きは今のラフデザインスキルに繋がっているから、分からないものだ)
エンターテインメントの共有は、直訳の通り、娯楽の共有である。昭和初期のイメージとして描かれるベーゴマ・おはじき・メンコに興じる少年少女像は、私の世代で言うところのゲームをこっそり持ち込む子たち(いや、普通に友達の家で遊ぶ子も多かっただろうが)、そして今、スマートフォンでソーシャルゲーム等に興じる子たちと、本質的な所は変わっていない。人と人がつながり、伝える。競争をする、高め合うものなのだ。というのは、ゲームとは頭を空っぽにしてできるものでは大抵ないからだ。(そういうものは、そういうものとして重要であるが。頭を休めるゲームとして。)
親と子を繋ぐゲーム像
子供のゲーム機を割ったことを声高に話す芸能人が居たような気がする。個人的にはそういうのは嫌いである。器物損壊は親が子に対して行ってよいものではないし、大事にしているものを肉親に壊されるのは、赤の他人視点でも心情的に辛い。……そういう風に自分が思えるというくらいに、私は親に恵まれていたとつくづく思う。
私の父親はゲームが好きな人である。ポケモン緑は151匹をまずバグなしで集め、その後は努力値を振り分け、難解といわれたポケモンスタジアムシリーズを全クリアしている。(私や、私の兄は幼かったので、見ているのを楽しんではいたものの、歯が立たなかった)また、スーパーボンバーマン2は何週もプレイしていたし、協力プレイができるスーパーボンバーマン3,4,5は親子でやった。マリオカートは上手かったし、ピクミンは12日くらいでクリアしていた。ドドロを犠牲ほぼなしで倒していたのは今でもすごいと思う。桃太郎電鉄にもハマり、99年を3兄弟と父でプレイしたことは幾度もあった。
ゲーム中に怒られたこともたくさんあった。理由はあまり覚えてないが、大抵自分が悪かったと思い、すぐ私は泣いた。ゲーム中、比較的理不尽なことは起こりやすい。子供心でキレてしまう場面も多いのだ。そういう時に怒る……というより叱る姿は、怖かったけれども嫌いではなかった。思い出補正もあるかもしれないが、いやまぁ、テニス部にいた時は一緒にテニスをして、そこでもやっぱり沢山笑ったし、怒られたので、幼少期もそうだったと思うのだ。
今自分は、ゲーム制作の道を進んでいるものの、そのきっかけは間違いなく父とのゲームプレイの中にあった。思えば、小学校3年生の時にプログラミングの本を買い与えてくれたのも父だ。C言語の本を与えてくれたことに、本気で感謝している。何より、C言語というチョイスが素晴らしい。国語の先生だというのに情報の先生よりもコンピュータに詳しいのは伊達ではなかったのだ。
自分語りに終始してしまったが、ゲームと親子は、序文に書いた通り比較的水と油というのが世間的な認識であると思う。しかし、そうではない像もありうるのだ。コミュニケーションのツールとして、ゲームを共に遊ぶ。
そういえば、今ではPokemonGOで母とやり取りをするが、これもそう。今は離れていても繋がれるのがよいことだ。母は沢山の伝説のポケモンを持っているものの、個体値とかには疎かったりするので、そういうことを自分が教えたりする。試してみて、「へぇ」といって、一緒に笑う。そういうことが自然と起こる。私はSwitchを買えていないので体験できていないが、Let's GOピカチュウ・イーブイは天才的発想であるなと思う。あれで我々の親・我々・そして我々の子どもの世代が繋がれるのである。
まとめると、親子で共にゲームをするというのは、素では共有しにくい価値を共有する一助となるのではないか、と自分は思う。(ひぐらしのなく頃にで有名な竜騎士07は、親子でそれを作ったようだが、そういうものも憧れる。)
SNSとオンラインゲームの変化
ゲーム業界で就職すると、大手であれば「コンシューマ」「オンライン」「アーケード」の3つに道が分かれる。それらは完全に分かれているわけではないが、特にオンラインゲーム、というものは2000年初頭から大分変化したように思う。「ストラガーデン」に入れ込んでいたものの、他にも様々なゲームをプレイした。「メイプルストーリー」「パンヤ」「テイルズウィーバー」「ローズオンライン」「マビノギ」「スペシャルフォース」……ちなみに一番最初に触れたのは「ボンバーマンオンライン」である。小1ながら、大学生とか、高校生とかとつながり、それらが非常にかっこよく見えた。「乙」は最初意味が分からなかった。読めもしなかった。「02」という同義語でようやく読めた。
初期のオンラインゲームというと、チャットツールとしての意味合いも強かった。ギルドに入ることで、いつでもそこに、「帰る」ことができた。小学校の友達とギルドを作って、知り合った人を迎え入れたりして、アイテムを共有したり、クエストに挑んだり。小学生であったから、やはり喧嘩もしたし、傷ついたことはたくさんあった。ギルドから追い出されたこともあった。(あの頃の友人はゲームを引退して以降会ってないが、元気にしているだろうか。)
今現在の「オンラインゲーム」はモンスターハンターやFFなどを除いて、大半がスマートフォン向けアプリ、「ソーシャルゲーム」を指す言葉になっている。ソーシャルゲームのチャットツールは、ゲーム中リアルタイムに機能することはあまりないように思う。チャットツールがないゲームの方が多いのではないか。しかし、それでよいのだ。スマートフォンというデバイスの都合ゲームをしながら文字を入力するのが難しいというのもあるが、今はSNSを使ってスクリーンショットを取り、共有すればよいからだ。これにより、同じゲームをしている人のみならず、異なるゲームをしている人ともつながることができている。SNSのつながりから新たなゲームをプレイする人も多いことだろう。つながりの主体としての役割はなくなりつつあるものの、つながる媒介役という意味では、オンラインゲームは変わってはいないのだと考えられる。
変わったもの
変わらない大切があるから、変わりゆく生活は正しいらしい。冗談はさておき、今まではさんざん、ゲーム像について変わってない部分に注目してきたが、変わったことも結構あると思われる。
1つは手間である。UIが良くなり、ゲームそのものが精練された。攻略情報は直ちに手に入る。デマ情報は殆ど無いか、あってもすぐそれがデマと分かる。明確に、プレイヤーが様々試行してゲームをクリアする必要性がなくなったし、そういうものは一般には受け入れられなくなった。ちなみに対照的に、縛りプレイやRTAは一つのエンターテインメントになっている。これはプレイヤーが誰でもゲームのプレイ風景を録画し、ネットで発表できるようになったからだ。玉石混交ではあるけれど、RTA動画や実況プレイ動画は、面白いものはとても面白い。ある種の「プロプレイヤー」が生まれた結果、手間を強制されなくなった一方で、手間を芸術として楽しめるようになったのだ。(これを考えると、FF5の低レベルクリア・ジョブ縛りクリア可能性などは、非常に時代を先取りしていたのだと思う。)
もう1つはユーザー同士のつながりの薄さである。誰とでも気軽につながれるようになったことは、当然として希薄化を招く。土日に夜通しで1つの長時間クエストを、多くの人がこなせていたのは、ギルドに強い思い入れがあったとか、そういうものではないだろうか。今ではレイド戦・ギルドバトルなどはあるものの、そこまで互いを意識しないで戦えるゲームの方が多いように思う。(これは、そうでもないか? FGO,マギアレコードなどはそうである。黒騎士などは比較的意識する必要がある。)
閑話:スマブラオフ会
私の友人にスマブラDXのオフ会を頻繁に開催する者がいる。数年前は、彼の家に遊びに行くと、スマブラDXのトレーニングモードをひたすらやっていて、私はコントローラーを握っては何度もフォックスファルコに叩きのめされる楽しい日々だったのだが、今はもはや数多くの人を招いて大会を開いたり、動画を投稿する等、幅広く活動している。
彼のすごいところは、見ず知らずの人間も「スマブラ」という同好でつなぎ止め、共に高め合っている点である。スマブラDXは非常に難解で、テクニカルな側面が大きい。明確にルール付けされた「スポーツ」として、基礎訓練を怠らず、初心者教育にも積極的に取り組む姿は、尊敬の念を禁じ得ない。
自分は負けず嫌いなのだけど、ゲームは得意じゃないんだなと気づかせてくれたのも、そういえば彼だなぁと思う(正確にはもう一人)。カードゲームも共に遊んだが、殆ど勝てないのである。スマブラも然り。基礎力も足りなければ、それに対する情熱も、自分には足りていないなと思うのであった。うーん、でもやっぱ、たまには勝ちたいんだけどな。勝てないなぁ……。
ゲームで何を学ぶか
ゲームには経済が存在している。むしろ、ゲームとは経済である。それは戦闘に勝利することで得られるお金、だけではない。経験値や能力値、アイテム。全てがある種のサイクルによって得られ・消費されるのだ。その経済のバランスと分かりやすさが、ゲームを楽しく遊べるかどうかのカギを握っている。
様々なゲームを遊ぶと、類似性から説明書を読む必要が薄くなってくる。最近のゲームであればレアリティやレベル上限などがそうである。「Aを消費すればBを得られる」「Bを消費すればCを得られる」……この構造は、実際、ゲーム以外にも当てはまる、非常に単純な論理構造である。そして、そこに「ゲーム性」という名の困難性があって、そこをどのように攻略するか、というものを分析する必要がプレイヤーに課せられるのである。他のアイテムを使う、レベルを上げる、相性を見極めるなどである。やはりこれも、様々な事例で成り立つ。
ゲームであえてこれを学ぶ理由はなにかというと、その仮想性ゆえに報酬が比較的大きくできることであろう。
以上、これを文学フリマ(5/6)手前に書いていたが、1週間放置されたので、ここで一回公開しておく。しかし、まだ本当に話したいところを全然話せていないので、その2をお待ちいただきたい。本当に話したいところというのは、ゲームをすることで道徳教育的なものがなされうるよ、ということなのですが。