魔法が解けたようだった
これは、「リアル推し活に向いていなかった人間が、現場や対面イベントに挑戦し、楽しみ、悩み、勝手に崩れていった」物語である。
私には推しがたくさんいる。今回語る推しとは、リアルで活動されている役者さんである。迷惑がかかるのでなるべく伏せる。
私はこの人にリアコに近い感情を持ち、熱に浮かされては冷まし、最後には失恋の気分を味わい、死にたくなっている。その過程を記念に記す。
※もちろん、推しをはじめ、誰かを責める気は毛頭ございません。
起 ~はじまり~
私はあまりリアルの人を推したことがなかったが、ご縁があり、推してみることにした。純粋に彼の芸や歌が好きだった。彼は数々の舞台や作品のお仕事をされている。それらの作品を拾い味わって楽しむ、それが基本の楽しみ方だったが、私はもっと楽しんでみたくなった。生のその人が見たい。
承 ~活動期~
私はその人の出演情報を調べ、舞台やイベントの現場へせっせと足を運んだ。
初めてそのお姿、声を見た瞬間、脳がとろけた。話す内容なんか頭に入ってこない。今、グーグルマップ上とかでは推しと同じ座標にいて、生の声を聞けている。推しと人生の時間を共有できてる。幸せだ。心からそう思った。同じ時代、国に生きて、望めば会うことのできる環境にいる推し。この状況に感謝しまくった。歴史上の偉人や架空人物だったらこんなことできないからね!
資格試験で難しくて泣きながら勉強してるときは推しのCDを流して心の支えにしていた。推しがこの世に生まれて、その作品を手に取ることができて、ほんとうに有難かった。世界に感謝した。
ファンミーティングにも挑戦した。推しと関わる時間を増やしたかったから。
私が推しと会話したのはトータルで3回で、上手くいったのは2回目だ。初回は感動のあまりうまく意思伝達できなかったし、最後は後述する。
上手くいったときのことを話そう。
私はリアル会話が苦手な人間である。すぐ言葉が出てこないし、声に自信がない。だから、何を話すか就活のように前もって日々練習した。それは功を奏し、推しにライブの感想を伝え、ニコニコしていただけることに成功した。推しに喜んでもらえた。私も嬉しい。満足だった。
推しがいることで、生活は華やぎ、生きる希望ができる。何かに挑戦し、成長の実感を得られる。友達がいない私に、応援したい人ができた。
推し活は私にたくさんのことを与えてくれた。
転 ~やってきた変化~
私は推しを愛してる。どんなことがあっても応援したい。ただの1ファンでしかないけど、それは生涯続けていけるんだ。そう信じてやまなかった。
しかし、そうはいかなかった。
推しの活動方針・思想に違和感
とあるファンイベントで、推しは過去のライブや番組の話をされた。
推しの芸歴は長い。私が未成年の時にはもう芸能界で活躍されていた。ファンイベントも当時からガンガン行われていた。でも、私と縁が繋がったのは近年であり、私が知らない話が多かった。
私は落ち込んだ。なぜ当時私は推していなかったのか。推していれば、推しと過去を共有できたのに。そのせいで推しに共感ができない。
推しは過去を大事にする人である。それはそうだ、過去を積み重ねたから今がある。思い返して、感謝や当時の気持ちを懐かしむのは大切なことだ。
しかし、私は過去なんか捨てたいと思ってる人間のほうであった。自分の過去なんか嫌いだった。過去なんか思い出しても何にもならないじゃないか。私は推しと出会った現在と、これからに興味がある。
推しはファンを大事にする人だ。とても嬉しいし、尊敬するし、ありがたい。だけどある日、その人の云う「ファン」そこに私はいないのではと思ってしまった。
ファンイベントの層を見ると、推し活という言葉がなかった時代から推してる、古参の方が多かった。新規も古参も関係ない。ファンの名のもとに等しい。それはそうだ。しかし、2者の間には超えられない壁があると思う。推しと共有できた時間の差である。ファン間でトラブルがあったとかではない。みんないい人しかいない。あたたかく迎え入れてくれる方ばかりであった。
私は勝手にこの絶望をこう描いて分析した。
古参は推しとたくさん時間を共有しているけれども、新規の私はペラペラである。過去の思い出を探し、味わえば同じになれるわけではない。舞台は1回きりだし、当時と今の空気は違う。古参の方は何十回もファンミーティングを経験している。それらを埋める手段はないのだ。そのせいで、推しに対する理解も深められない。
コミュニティ内に古参が多いということは、推しも古参向けに話をされる。過去を大事にする人。だから、最近ぽっと出てきた私なんか、気持ちに沿えない私なんか、眼中にないな、好きで深めたいのに、なにもできないんだ。という感覚になってしまった。
本当に古参の人が羨ましい。私の人生、あまり後悔はないけれど、推しともっともっと早く出会っていればよかった。違う人生がよかった。推しを知らなかった名もなき時間、生活が無価値のように思えた。
自分の推し活がルーチン化することが苦痛になった
私の推し活は、タイミングが合えば推しに逢いに行き、そのカッコよさを味わい、日々の糧にするということだった。
しかし、それを1年以上続けると、この営み自体に飽きが生じ始めた。もちろん、推しの芸は素晴らしく、提供されるものに不満はない。誰も悪くない。変わったのは私である。
「推しに逢いに行く」→「カッコよかったね」→「おわり」の営みの繰り返しが、私にとって苦痛になってきたのだ。
私の特性として、「ルーチンが嫌い」というものがある。毎日同じ時間に同じことを、同じようにやる・・という繰り返しの中にいると感じた瞬間に、それを破壊したくなる。破壊しなければ無気力になっていく。だからある日、夜にスーパーへ買い出しに行ったり、いつも朝食はオートミールなのに、焼きおにぎりを作ったりする。そういう突発行動をすると、「日常に支配されず、好きなことした!生きてる!」と感じる。ベルトコンベア乗って、無感情に過ごしたくないのだ。
それに則り、「推しに逢いに行って、カッコよかったと思う営み」が、もうルーチン化されてるように感じてしまった。推しに逢いに行っても、カッコよかったで終わらせてしまう。それは感受性が足りないよ、言語化すりゃあいい、というわけでもない。その行いによって私が得られることには限界がある。これを永続しても、エロ漫画読んだ時のような感動や、自分の自信に繋がる出来事に変化することはないような気がした。休むタイミングが来たな、と思った。
推し活そのものに違和感
推し活を極めようと思えば、推しの心の中の住人になるくらい、推しを追いかけなければいけない。推しのやることなすことは全部肯定し、出演イベントは全部行き、グッズは集め、過去のイベントを回収し、推しの興味関心レーダーをぴんぴんにしておく。誕生日には毎年プレゼントを心を込めて選定し贈る。自分は置いておいて推しの味方になる。そうすることではじめて、推しの発言にイイ感じのリアクションやコメントができ、推しに喜んでもらえるのだ。と思う。(個人の考えで、私がこれを全部やってたわけじゃない。
しかし、それをするということは、自分自身の人生のリソースを過度に他人に捧げることに思えた。私はそれに向いてなかった。
自信のない私だからこそ、私はもっと自分の人生を充実させたいと思った。推しにするべきことを、私は自分に対してできていない。むしろ私が推しになりたい。私だってどんな時も肯定してくれる味方が欲しいし、褒められたい。と思ってしまった。もっと自分のことを充実させたい。他人のことを追っかけてる暇はないのではないか。と思った。そのお金、時間、手間を自分に向けた方がハッピーだなと。
推しに捧げものをするなら、自分は200パーセント幸せでなけれいけないと思う。余った分をあげないと病んでしまうので。
これは愛着障害で病みがちで、推し活向いてない人の思想です。これを楽しんでやられている方は本当に凄いと思う。私にはそれをする才能がない。苦痛が勝ってしまう。
結 ~運命を自覚する~
転のエピソードを踏まえると、「じゃあさっさとやめて、好きなことしな、これで話は終わりでは?」という感想になるのは理解する。
しかし、私がリアコしてた期間と、推しがファンイベントを休止する時期が丁度よくかみ合ってしまったので、私はファンイベント最終日まで在籍することを選んだのだ。私がやめたい段階にいたころには、最終日は決まっていた。だったら最後までいてみたい。その方が後悔しないと思った。
そして最終ファンイベントを経験した。普段は顔を合わせない他のファンの皆さんとお会いして、推しと過ごす時間にほほえみあった。推しは人を笑顔にする。私は人の笑顔が好き。それに幸せを感じた。
悪いことばかりではなかった。リアコ風をやめた私にとって、その時間はとても楽になっていた。これまでは「うまくリアクションして認知されたい」、「推しと同じ気持ちになりたい」とか思ってたけど、今はそれはない。推しはお世話になっている人。感謝すべき人。それ以上望まない。おだや~かに見つめることができる。心理的に楽だった。
イベントの主旨も相まって、推しは過去の話中心にされた。先述から、私は推しの活動方針を推察していたし、感情処理はしていたので穏やかに話を受け止めることができた。私は当時から推していれば、そのイベントを経験できたのだろうか。分からないが、エピソードを元に自分が参加者だったらどうしたろうかを考えて楽しんだ。
そしてイベントの終わりに、「一人ひとり簡単に推しとご挨拶して解散しましょう」のコーナーが始まった。私は焦った。予定にない急なおしゃべりをすることになったから。加えて、推し活に疲労しているというやましいステータスも抱えている。準備をしなかった。自業自得である。
そしてその時、私は推しと最後に会話した。ありきたりな感謝と話しかできなかったし、喋りが拙いので子ども扱いされてしまった。つ、つらい~・・・私は、目的のない、簡単なミニトークが苦手だ。その場でイイ感じのことを言い、和やかにお別れするみなさんが眩しかった。私のターンは最短だったかもしれない。でも、勇気を出して喋ったことは自分で評価したい。
そして思った。私、推しと会話の相性合わないと。そのせいで推しを不快にさせている。その反応から、推しに苦手と思われてるんだなと思ってしまった。
私はコミュ障でクズのくせに、いっぽうで感受性はめちゃくそある。相手の本音や気持ちを第六感で予感してしまうのだ。推しは、私に対して苦手意識がある。それはあんまり間違ってないと思う。
そりゃそうだよね、いい感じの質問も感想も言えず、古参のような馴染みも、共有できる思い出もないから。それに間も空くし、話しづらいよね。
INFJあるある。会話中に他人から(^^;)の顔される。自覚あります。INFJのせいにしたい。させてください。でないと辛い。
推しに見送られ、イベントは終わった。
その後、とても落ち込んで死にたいと思った。推しとうまく話せなかった自分、必要とされていない自分、推しを喜ばせられない自分。全部憎くて、大嫌いだった。終わりにしたい。自分の人生、とてもくだらなくて、みみっちいものに思えた。
ファンの間では、子供がいる人で一緒に連れてこられたり、これから産む予定の人がたくさんいて、その報告をして推しを笑顔にしていた。
では私はどうか。なにもなかった。これからも予定はない。私はこの人生、趣味に生きると決めた。結婚と子供を持つことは、私の人生に予定はない。他人が喜ぶとしても、そんなことはとてもやりたくないからだ。子供は、自分が欲しいと思ったときにのみ産む。それ以外の他人の期待に応えるためにやるのは絶対に嫌だ。
私はただ、自分が好きなことをして、生活の合間に資格勉強をして小銭を稼ぐ程度のことしかしていない。推しに報告できる、慶事なんかなんもない。せいぜい、文字書いてイイネ稼ぎ、連載小説完結させたぜくらいの、どうでもいいものばっかりである。
他人との比較をし出すと、自分 VS 推し・その他のファンの格差が浮き彫りになる。ここは私のいる場所じゃなかった。もっと自分に合った、結婚出産しなくても胸を張れる場所にいきたい。毎日働くだけで偉いとか、ノート更新して凄いとか、日常の小さい出来事をめでたいと言いあえる環境、そこが私の場所なのだと自覚した。上手く喋れないけど、この人なんかいいなと思って貰える人と出会いたい。条件付きがつらい。
結婚出産してないと人としてだめなんだろうか。私にはレベルが高すぎてそっちはいけない。興味もないし、ハイスぺではないので、選んだもの1つだけで生きるのが性に合っている。ポケモン3匹のうち1匹しか選べないと同じ感覚。
私は、推しとフレンドリーに意思疎通できないばかりか、喜ばせることもできない。推しは私のことが眼中にない。それを破る手段もやる気もない。
最初は、ただ声を聞いて顔を見るだけで幸せだった。ちょっと欲を出したのがよくなかったのかな。にこやかに会話することもできないなんてな。
失恋した状態になった。
せっかく好きだったのに。誰も悪くないのに、気が付いたら魔法が解けていた。恋だったと思う。魔法にかかったようにほわんとして、なんでも肯定していた。けれど、解けてしまえば、ただの人間関係が残った。そしてその相性は悪かったのだ。
それは性欲からきていると思う。性欲は確かに、万能の魔法をかけてくれる。無条件に好きになれるし、幸せになれる。しかし、効果は短い。夢はすぐ終わる。取り戻す方法も残さない。
恋したら、ずっと気持ちが持続すると信じていたし、工夫して持続させたかった。けれど私にはそれができなかった。自分の気持ちに反することはしたくない。恋の責任をとれる人間でいたかったのに、できない。不誠実だ。また自分を責めた。
推しを幸せにできる人間じゃなかったことがとても悲しい。私は、ただの一粒のお金になるだけでは満足しない。サイリウムの1本になれない、自我の強い方だ。できればお話して、直接感謝や感動を伝えることで、幸せを運びたい。けれど、それが難しい運命の中にいる。お金使うことしか役に立てない。でも養分になるだけそれは嫌だ。私は見返りを求めてしまうタイプだった。
推しに嫌われたら、私には生きる価値がないのだ。愛着障害の悪いところが全部出てきて、夜遅くまで泣いた。この人生特に意味がない。子供産まないし。稼ぐとかたいしたことできないし。自分が嫌いだから、他人も応援できない。人としていけていない。人生というものの味方になれない。抜け殻のように思えた。
推しからは元々必要とされていないし、私も必要としなくなってしまった。その不本意な事実がとても悲しいのだ。
二次元キャラの推しはいい。実際にいないから、個々人がそれぞれ解釈して、好きに深めればよろしい。調べて手に入れた分だけ、法律の範囲内で自分のものになるし、人との比較も起きづらい。
しかし、現実にいらっしゃる人の場合、今回のことが起きる。人間として存在する以上は、人と人との相性が存在して、その人の時間は1回きりで、選び選ばれて、道は交わりもすれば遠くなり離れていく。
私はリアル推し活に向いていなかった。
気持ちを書き終えたこれからは
昔書いた記事で、「悲しいことも記事にすれば軽減される・・」と自分で言ったからやってみた。すっきりした。小説の形じゃないけど。
一度沈むと、とことん味わい尽くしたい気分になる。だから、今はこれが書ける。ご機嫌なときは書けない。
とりあえず、この推し活は5年は封印します。極力なにもしない。過去のことは捨てる人間だから、都合の悪い過去中心に忘れることにします。
なんかもうどうでもいいかな~と、すっきりしたタイミングで、やる気出たらまた応援します。今回爆発してしまったので。
次の推しに逢うためにコミュ力磨くとかそんなエネルギッシュな人間ではないので、なんかしないととは思うけど、それは考えてません。
結局のところ、合わないコミュニティに所属していたから苦しくなっただけなんですよね。私にとって不利な場所にいたから何もできず、手ごたえも感じず、行き止まってしまった。
全体を見てみると、自分の理想が叶わなかったので、悲しくなってしまったという感じです。
でも私は、この推し活をしたことを後悔はしていません。失敗せずに無音でいるよりは、何か思い出があった方が人生豊かだと考えているので。こんなことなら推さなきゃよかったとか思ってませんよ。推しにはとても感謝しています。しなければいけない。本当に。なにもかも私が原因です。
私の場所はここです。執筆できる場所。幸い、支部やnoteなどで、いいねやコメントを日々いただいています。その理由が何であれ嬉しいです。
私は書く才能がある。プロじゃないけど、ある。それは感じてます。ここにいて、好きなものを語ったり、夢小説書いて変態思想を披露して、人におもしれーと思って貰えることが、生きがいに繋がっている。私はここのような場所で頑張るべきなのでしょう。私は正直に生きていくのが理想です。この文字は全部正直に書いてます。
「死にたい」とnoteでつぶやいたら、❤くれた方がいらっしゃって、とても嬉しかったです。価値がないと思った私でも、応援してくださる方がいるのね。ありがたい・・ほそぼそと生きていけます。
この間は苦手な場所に行っちゃったね。これからは得意な場所で好きなことしようね、わたし。
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