次は貴方の番ですよ

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 郊外の工業団地内のとある工場でコツコツと真面目に働く男性A。
「今は原付バイク通勤でホンマありがたい。雨風やったら我慢出来るけど、3年前みたいなことがまたあったら、もう生きてはいけんわ。」

 朝の通勤客でごった返す小窪(こくぼ)駅を定刻で発車した朝8時過ぎの通勤特快。その12両編成の長い編成は次は河渡(こうど)駅まで停車しない。その間約15分、ドアの開閉は一切無く、駅員が力任せに押し込めた乗客を「積み荷の如く積んで」ひたすらに走り続ける。それでも通勤特快は「特急券不要の特急」とも呼ばれ、利用客の人気は高い。

 ある朝の通勤特快のある車両で、男性Aは目前の女性に迷惑行為と疑われたくない一心で、両手を上げつり革の一つの輪に十本の指を通して握りしめていた。手を下ろしたりしてると誤って女性に触れてしまうかもしれない。すし詰めの車内で痴漢呼ばわりでもされようならまさに公開処刑で社会的抹殺ある。スーツを着て両腕をバンザイと上げると非常に格好悪いが、疑いをかけられるよりは百倍ましであった。
 その日の男性Aのカバンはノートパソコンが入っていて、いつもよりかなり重くなっていた。それでも男性Aは両手を上に上げて、カバンを持ち上げながらつり革を必死に握っていた。網棚は遠く手が届かず、カバンには肩にかけられるようなベルトも付いて無い仕方がない。 
 男性Aの斜め横には女子高校生が立っている。季節は初夏、上着は白くて涼しげな半袖ブラウスである。そしてその隣には、いかにも暑苦しそうな黒いスーツを着ている、就職活動中と思われる若い女性がいる。もちろん男性Aは彼女らに背を向けるように立って我関せずを貫き通していた。
 やがて男性Aの右手はカバンの重さに耐えきれずしびれ始めてた。仕方なくカバンを左手に持ち替えようとすると、通勤特快に不意にブレーキがかかった。急ブレーキとはいえないものの不意のことで、思わず男性Aはつり革から右手を離した。既に男性Aの右手の感覚はほぼ失われていた。しかも進行方向より後ろの乗客がバランスを崩して体重をかけてもたれかかって来る。それを避けるのに男性Aは体を捻らずにはおられず、結果として女子高校生と面と向かうことになってしまった。 
宙に浮いた男性Aの右手はそのまま下に落ちず、無意識に?める場所を探す。そんな中ブレーキの衝撃はまた起こり、男性Aは後ろに立つ乗客にさらに押し込まれる。
 宙ぶらりんのその手の向かう先には、ブラウスの下から堂々と存在を主張してくる女子高校生の胸がある。男性Aは自分の右手の行く先を意識する前に、自分の右手でその胸の膨らみをぎゅっと握ってしまう。

 女子高校生は「ひっ!」ととっさに声を上げた。顔は青ざめている。当然である。ラッシュ時の車内とはいえ、成人男性のいかつい手が自分の胸の膨らみを鷲掴みにしたのだから。そして一部始終を黒いスーツの女性は見ていた。女性も息を呑んだまま直ぐには確かな言葉を発する事ができなかったが、すっと息を飲むと周囲に響くかん高い声を発する。
「この人、女の子の胸、揉んでる!」
既に男性Aは女子高校生の胸から手を引いていた。しかし女子高校生は、胸を庇うように通学カバンを両手で前に抱きしめてそのまま何も言わずに床にしゃがみ込む。周囲の乗客の視線は男性Aに集中する。やや離れたところに立っていた中年女性が叫ぶ。
「その人痴漢よ!」
同時に、パリンと何か硬いものが割れるような小さな音がした。緊急通報ブザーの前の乗客が、透明のカバーを割って赤いボタンを押していた。
尋常でない量の冷や汗を顔面に浮かべている男性Aを囲む人々の間で広がるざわめき。
「え、痴漢…。」
「女子高生の胸を?まじ?」
「こんな時に緊急ボタンを押しやがって…。朝一番の大事な客先の約束に遅れる…。」
「女は黙って女性専用車両に乗っとけや。」
「俺たち毎日めっちゃ自衛してるのに。」
「公衆の面前でおっさんが堂々と乳揉みか。」
「夏服の上着が薄いから狙われたんじゃね?」
「朝っぱらから性欲激し過ぎ。」
「社会的に終わったな、あいつ。」
「未成年に欲情するリーマンとか、マジキモッ!」
誰も彼もが自分勝手にひそひそとつぶやく。中には非常識にも現場の写真をスマホで撮ろうとするものもいた。いくつかはSNS等に晒され、社会的正義を煽って視聴率を稼ぐのが得意なマスコミが買い取ってワイドショーで放映するかもしれない。 

男性Aが誤って胸を掴んでしまった女子高校生は、ひっくひっくと声を押し殺しながらずっと俯いて泣き続けている。就活中のスーツの女性は、着ていた黒のジャケットを彼女に着せて両肩を抱いている。中年女性は男性Aと彼女達の間に立ち塞がり、男性Aを睨みつけている。 
 和田北駅を通過したところで女性車掌のアナウンスが車内に鳴り響く。
「緊急ボタンが押されましたので、安全確認のため次の河渡駅でしばらく停車致します。」
通勤特快は河渡駅の1番ホームに滑り込んだ。男性Aのいた場所に最も近いドアに、駅員と、警官と思しき濃紺のライフジャケットを着た数名が待っていた。
「こちらに来て下さい。」
男性Aが呆然としていると「早よ降りぃ!」と初老の男性が怒鳴りつける。
警官の一人が警察手帳を男性Aの目前にかざした。「県迷惑防止条例違反の疑いがあります。駅長室にてお話を伺います。」
男性Aの前後左右にそれぞれ警官が立ち塞がる。余計なことはするな、と鋭い目で語りながら。やや離れた所で女性の警官が、震えが止まらない女子高校生に寄り添っており、就活スーツ女性が話す内容をメモに書きとめている。やがて彼女らはその警官に伴われて何処かへ立ち去った。
 続いて向かいの2番ホームに各駅停車が入って来た。発車する様子の無い通勤特快から、多くの乗客が各駅停車に乗り換えていく。 
 その後の事を男性Aははっきり思い出せない。駅近くの警察署にパトカーで連れて行かれて、何らかの書類に署名を要求されたこと、身元保証人として呼ばれた妻のくぐもった嗚咽、遅れて会社に欠勤を伝えて怒鳴られたこと、妻の運転する車で帰宅して、おかえりと言った中学生の娘に声をかけられずに自室にこもったこと…。切り取られたイメージが脳内で何度もフラッシュバックした。

 男性Aは暗い部屋の中で、スマホを取り出した。そのロック画面にニュースアプリの通知を見つけた。
「今朝、通勤ラッシュの通勤特快の車中で、通学中の女子生徒への迷惑行為が有りました。容疑者は県迷惑防止条例違反の疑いで最寄りの警察署に連行され、事実であると自供したとのことです。」
男性Aは台所に降りると無言で包丁を取り出す。不穏な雰囲気に気づいた妻が制止したが、それから来る日も来る日も繰り返し強い自死の念にかられ続けた。

 しばらくして、男性Aの自宅に弁護士事務所から一通の書留が届く。「被害生徒の保護者に要求通りの和解金を支払えば、強制わいせつ罪の告訴はしない」という条件が提示されていた。男性Aには選択肢はなかった。娘の学費保険を全て取り崩して、別の弁護士事務所を通じて全額を一括で支払った。娘の将来の進学について思い悩むゆとりは全く存在せず、ただ不名誉な罪名を一生負う事を逃れる事のみが男性Aの頭を占めていた。 

やがて男性Aは精神を病んだ。一日中カーテンを閉ざした自室にこもりスマホを見てばかりで一歩も家から外出しようとしない。そんな無意味な日々が一か月以上続いた。見かねた妻は、気の進まない男性Aを強引に心療内科に連れて行った。そこでうつ病及びPTSDという診断を受けた。数日後、夜中の線路に侵入して飛び込み自殺を図ろうとした男性Aは、通報で駆けつけた警官に取り押さえられ、強い自殺企図衝動ありとして近隣の精神科病棟へ緊急保護入院させられる。3週間で退院できたが、当然元の職場への復帰など望むべくも無く、診断書を提出して十数年勤め上げた会社を依願退職した。病気による中途退職者への退職金は微々たるもので、失業保険も「退職者の都合」とされ、たいした金額は支給されなかった。
 女子高校生に対する痴漢の容疑者となったことを知った実の娘からは、害虫を見下すように扱われた。もはや男性Aにはプライドの欠片も存在しなかった。 

 病んだ男性Aの妻は、複数のパートを掛け持ちして家計を支えながら夫の看病と娘の養育に奔走していた。しかしある日、度重なる過労の為に倒れ、救急病院に搬送される。点滴を打たれて帰宅すると、限界まで引き絞っていた緊張の糸が突然ぷつんと切れた。妻も出口の見えない過酷な日々に摩耗して、パート先の無断欠勤を繰り返して解雇された。家計に収入は無くなり、後に残るは僅かに残った男性Aの退職金と、あと少しで給付が切れる失業手当のみになった。男性Aの両親は既に他界しており、状況を見かねた妻の父親は、まだローンが残っている男性Aの自宅と土地、そしてマイカーの売却を提案して来た。

 下町の安アパートに引越して住むようになったある日、見舞いに来た妻の両親は、静養させると称して妻と娘を連れて帰る。以降、何度妻の携帯に電話をしても応答しなくなった。数日後妻の父親は男性Aに離婚を提案した。「娘の親権を放棄すれば、男性Aが回復して収入を安定して得るようになるまで養育費の請求を延期する、ただし延期期間は娘に会うことは許さない」という条件付だった。翌日男性Aは提案を受け入れ、離婚届に押印した。

 その後男性Aは地域の福祉センターの支援を受けて精神障害者手帳を取得し、障害者向け就労支援施設に通うようになった。男性Aはリハビリの一環として職員に連れられ近くのコンビニに行った。時間は夕方で、学校帰りの女子生徒が大勢集まっていた。その様子を見た途端、男性Aは竦み上がった。ちょっとでも彼女らに近づけば、再び痴漢扱いを受け警察沙汰になり、保護者の父親から罵倒される、そんな光景が頭をよぎる。男性Aはボトボトと涙を流し始めた。それに気づいた職員は強引に男性Aの手を引きコンビニを離れるが、男性Aは後ろで女子生徒達のざわめきを背中に受けて震えが止められなかった。

 事件から3年後、就労支援員の勧めで男性Aは郊外の工場でのライン作業のハーフタイムパートの職を得た。正社員とは程遠い、アルバイトに準じる厳しい待遇であったが、男性Aは僅かながらも定期収入を得るようになった。通勤は、ほんの僅かに手元に残っていた金で購入した中古の原付スクーターである。 

 今でもあの女子高校生には謝罪しきれない程の迷惑をかけてしまったと自責の念にかられる。しかし同時に、自分には迷惑行為の意図は全く無いし、その対策を講じていたにもかかわらず、不運が続きこのような犯罪者扱いを受けてしまった無念をどこにもぶつけられないやる瀬無さを感じ続けていた。
 きっと平凡で品行方正な人間が罪を犯すのは、このような不運の積み重ねではないか、と思う。しかし人に傷を負わせたら、傷害の意図の有無の関わらず犯罪である。男性Aはいつもそこまで考えてはループに陥り、無理矢理意識を押さえ付けて考えるのをやめる。自発的では無くとも人を傷つけることは全て犯罪なのだ。
「今後自分は決して女性に近づいてはならない。新幹線や飛行機でも席を二つ取り、隣に女性が座る可能性を消す。悪天候の中でも原付で移動し公共交通機関は決して利用しない。
見知らぬ女性に「◯◯ハラ!」と言われない為にはここまでしなけらばならない。もし再び女性からなんらかのハラスメント呼ばわりをされたら、すぐさま自分の精神は崩壊する。」過剰とも思える自戒を男性Aは胸に刻む。 

 妻の実家にいる娘は春から高校に進学し、電車通学を始めると聞いた。男性Aは、今まで手塩にかけて育てた娘にもし性的な思いを持つ邪な男が近づいたら決して許しはしまいという父親としての思いを実際に抱くにあたって、ようやく被害女子高校生の保護者の怒りを身をもって感じた。しかしそれでも、あれは不慮の事故だったという意識とのせめぎ合いに朝起きてから夜寝落ちるまでの間、悶え苦しむのである。 

男性Aはその日も仕事帰りは原付に乗って、居酒屋やパチンコ店などには一切寄らずにまっすぐ帰る。小さなカゴには一人分の食材が入っていた。

表紙 kizino

初版:2020年1月19日(関西コミティア57)

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