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掌編小説 「花筏」
花筏(はないかだ)・・・サクラの花びらが水面に浮かび流れるさまを、筏にたとえた言葉
日本の美しい言葉辞典
ナツメ社 /2020年
いつも通る川沿いの道に、季節外れの桜が咲いていた。まだ十二月だというのに気が早い。私は桜という花は出会いと別れの象徴だと思っている。残念ながら今は後者だ。目の前で潔く散る花びらを見て寂しさを感じずにはいられなかった。
結実(ゆみ)は劇団の裏方をしている少し人見知りがちな、控え目な性格の女の子だ。小さい頃からこれといって夢中になれることがなく、母は心配していた。しかし、それが見つかる出来事があった。キッカケは母が小さい頃に連れて行ってくれた劇団の公演だった。振り返ってみると、何事にもあまり興味をもたない娘を心配して、何かないかと考えてくれたのだろうと感謝の気持ちが浮かぶ。
その日の演目はファミリー向けの有名なアニメ映画のタイトルだった。やはりあまり興味がないせいか結実は浮かない顔をしている。
あー今回もだめかなこれは、と母は次の策を頭で巡らせ始めていた。演劇も終盤に差し掛かり、展開とともに照明や音楽が賑やかになる。そのとき結実が口を開いた。
「おかーさん。」
「なぁに?疲れちゃった?」
「だれが音、とか、光、とかやってるの?」
「それはね、裏方って人達が一生懸命考えてやっているんだよ。」
「お洋服は?あのお城は?」
「あれもね作ってくれる人がいるんだよ。」「見えないけどたくさんの人達がいるんだよ。」
「すごいね!!じゃあゆみもそれをやる!」
娘の表情がパッと明るくなったのを見て母は一瞬上を向く。わー危ね、娘が希望をもってくれた瞬間に心配させてしまうところだったー。なんとか持ち直して娘に再度向き合う。
「そっかそっか!じゃあお母さんは結実を応援するよ!」
「やったぁ!じゃあ帰ったら"うらかたさん"のこともっと教えてね!」
「もちろん!」
とびっきりの笑顔で応えた。とてもいい視点をもってるじゃないか私の娘は。きっと人の気持ちにも気がつけるいい子になるだろうな。良かった、育てる決意をして。良かった、あの時に諦めなくて。
二十歳になり舞台美術の専門学校を卒業した結実は、無事劇団に就職することが叶った。音響を専攻したのでそのままの希望通りのポジションにつくことができた。その劇団では、教育段階には先輩がマンツーマンで指導をしてくれる。それが陽向(ひなた)さんとの出会いだった。
「よろしくね!私、陽向!」「バリバリに教えてあげちゃうからついてきてよ〜!」
「は、はい…よろしくお願いします…。」「結実…と申します。」
「もっと明るくいこーよ!」「大丈夫、私が一人前にしてあげるから!」
「あ、ありがとうございます…!」「頑張ります…。」
こんな絵に描いたような明るい人いるんだ。戸惑いつつも結実はこの人なら大丈夫だと自分の直感を信じた。だってなんだかお母さんと同じような笑顔をしてるんだもん。新社会人のほとんどが経験するであろう、最初の憂うつで不安な気持ちは幸いすぐに消えてくれた。
それからの陽向との日々は毎日が貴重な経験で、結実の今後の礎になったのは疑いもしない事実だった。音響の仕事は奥が深い、勿論上手くいかないことも数え切れずあった。新人が本番でも失敗してしまうのは珍しいことではない。そんな時でも陽向は結実に対して技術的な指導は厳しくしつつも、熱心に成長を促す言葉を掛け続けていた。
「一つでも欠けたら演劇は成り立たないの。他の仕事にも言えることだけどね。」
「演者さんだけでもできないし、監督さんだけいても意味がない。」
「その一つ一つがね、全て揃ってお客さんに届いたとき!」
「それが私がこの仕事をしてて一番嬉しいときで、常に目指してることなの!」
「結実ちゃんも一人立ちしたらわかるよ〜。いやわからされちゃうよきっと!」
「あの景色はね、何にも代えられない。」
いつも明るい口調の陽向が珍しくしんみりと放った言葉に結実は心を動かされた。
それから月日が経ち、結実も一人立ちして仕事ができるようになった。日常が変わる瞬間はふいに訪れるものだ。
十一月の初旬、陽向が劇団を辞めるという知らせを聞いた。どうやら海外の劇団から誘われていて、前から話し合いはされていたようだ。その国の年度始めが一月ということもあり、それに合わせて十二月中には退職する予定だという。陽向さんのことだ、まだまだ上を目指すつもりなのだろう。結実は寂しい気持ちを抑えつつ笑って見送ろうと決めていた。
最後の日。公演終了後。
「陽向さん…!」
少し声が震えたかも。駄目。
「結実ちゃんお疲れ!もう完璧だね!これで安心して旅立てるよ。」
違う、駄目なのに、考えてきた言葉が出てこない。
「陽向さ…。」
そっと優しい手が結実を包み込んだ。もうこの人は本当に。堪えようと思っていたものは全て流れていった。
「ありがとねぇ。貴方の成長を近くで見守れて本当に嬉しかったよ。」
「最初は少し心配だったけど、絶対一人前にしてやる!って決めてたから。」
「最後までついてきてくれてありがと。」
「君は私の自慢の弟子だ!胸を張りたまえ!ハッハッハー!」
こんな時までおどけるのはこの人らしいや、そう思いつつも涙が止まらなかった。
それから自分が何を言ったかはもうわからなかったが、とにかく感謝の気持ちとこれからも応援してるということは伝えられたはずだ。
「本当に、ありがとうございました…陽向さんが言ってた景色確かに見えました…。」
「わかっちゃったかー!さすが私の弟子!」
「絶対に忘れちゃ駄目だよ〜約束!」
「…はいっ!!」
桜の木に視線を戻す。花びらはほとんど散ってしまったが枝の隙間から太陽の光が射し、水面を照らす。水面に散った花びら達がそれぞれ好きな方向に流れていく。右にいったり、左にいったり、或いは流れに身を任せ、時にはまとまって。まるでそれは筏(いかだ)のようにゆっくりと前を見据えて進んでいるように見えた。
「大丈夫、きっと。」
「あなたが残したものは私が受け継いで伝えていく。」
「それが私なりの恩返しだから。」
「追い越したって文句言わないで下さいね?」
桜の木に背を向けて歩き出す。
「こんなポジティブだったかな私?」
上を見上げると一直線に飛行機雲が伸びていた。
結実は少し微笑みながら、少し堪えながら進んだ。
前向きな風が後を押してくれた気がした。
Fin
読んで頂きありがとうございました。