“忘れないために書く”のではなくて、記録を残すべく書いている
昨日、『書く習慣』や『ADHD会社員、フリーランスになる』の著者であるいしかわゆきさんと、『書く仕事がしたい』『本を出したい』を書かれた佐藤友美さんのスペースを聴いた。序盤から最後まで、自分ももっとしっかり考えてその分行動していかなければ……!と気が引き締まることばかりだったのだが、どうしてか一番印象に残ったのはいしかわゆきさんの「忘れちゃうから書いている」という言葉だ。
他の人からしたら、いしかわゆきさんのたくさんのnoteの下書きや継続、本を売るための行動などではなく、なぜそこ?と思われるかもしれない。私もこのスペースを聴くのではなく、文字で読んでいたら、そんなに気に留めなかったと思う。
忘れちゃうから書く。文字にすればありふれているけれど、私はそう思って書いたことがあっただろうか。事実、私は興味があること、興味がなくても文字と数字に関する記憶力が強い。携帯電話を買ってもらう前の小学生の頃に母の携帯電話番号を覚えていたし、読んだ文章を思い返すのは苦ではない。その分、どんなに興味があっても映像や他人の顔は覚えられないが。
私もライターなので、こうして自分の書きたい文章もインタビュー記事もメモも書く。だけど、記録として取ったはずのメモを最終確認のために読み返すことはあっても、記事の構成など根幹を決めるのに読み返すことはない。重要なことは頭に残るからだ。
ここまで考えて、もしかして、私は自分のための記録というよりも、誰かに見せる記録として書いているんじゃないかと思い始めた。誰か。それは短期的には目の前のクライアントや編集者かもしれない。だけど、世に出たそれは後世に残る記録にもなる。
自分だけが覚えていればいいなら、書く必要はさしてない。忘れたいことも忘れられないが、その分忘れたくない文字や数字はしっかり覚えているのだから。でも、誰かに見せて事実を伝え自分の考えを残しておくためには書く必要がある。
世界が私一人であったなら、書く必要はない。でも、事実を確認すべき誰かがいて、後世私の文章を読む誰かがいる。メモも世に出した文章も誰かが読む前提で書いている。思い返せば、実験ノートもそういうものだった。
それはきっと、私の生きた証であり記録であり一つの試行の経過だ。こういった個人的な文章も論文も私にしか書けない類のものだ。私が個人的な文章や論考を書き、文筆業と研究をやろうとしているのも、私の「書く」のありようを思えば、納得できる。
いしかわゆきさんと佐藤友美さん(さとゆみさん)のスペースはこちらです。文章を書いていきたい人には奮い立つ1時間でした。公開期間があると思うので、お早めに。
私が最近書いた論考はこちらに載っています。