解法から解放へ
世界自閉症啓発デーだが、いつも通りに仕事をしていた。国際アルビニズム啓発デー(毎年6月13日)でもきっとそうだろう。こういうマイノリティのための日が祝日にならないこと自体が、社会の現状を示している。
とはいえ、当事者やその周辺だけのお祭りの繰り返しにも私は辟易している。どうにも外側に届いている感触がない。発達障害や自閉スペクトラム症と距離の遠い人々は、公共スペースの青に少しだけ驚いて終わるだけの日だ。
外に届ける効果的な手段を提案できないまま、私も一日を終えようとしている。そんなときに「解法と解放」なんて言葉がふっと浮かんだからこれを書くことにした。
私は、成人後にASD(自閉スペクトラム症)の診断を受けた、いわゆる大人の発達障害の当事者だ。それだけではなく、先天性の遺伝疾患であるアルビノ(のなかの眼皮膚白皮症)でもある。他にもマイノリティ性があって、人生は割とハードに感じている。
アルビノゆえの視覚障害があったものの、教育熱心な両親の用意した環境と、私自身の文字や数字を扱うのを得意とする性質とが幸いして、勉強はよくできた。特別支援教育との接触がほぼなく、見えなくても困らないよう教科書を覚えるなどの影の努力をしなくても、一定の成果が出せた。その点については多少才能があると言っていい。
一方で、人とコミュニケーションする才能を自分に欠片も感じたことがない。より正確に言うならば、ビジネスのような明確な利害関係がないなかで、対面で、黙りこむと不自然になる、何気ない雑談やそこから親密さを育む才能がまるでなかった。
幼ければそれだけ、一人でいることを許されないし、衝突を避けるためにすっと身を引く判断もできない。結果として、私は幼少から人間関係を破綻させることしかできなかった。
右も左も何一つわからないままに爆発が起こり、破綻が訪れ、響かない説教を聞かされた。説教をする側もそれを聞く私の側も、なぜその事態が起こってしまったかを正しく理解していないのだから、有効な反省が発生するはずもない。
説教なんて聞きたい子どもはいないので、当然私もわからないなりに説教を避ける。なぜかわからないけれど、人間関係で摩擦が起きてそれで怒られるなら、人間と距離を取ればいいのだ。
そんな力技で説教を避けられはしたけれど、大人達にはあまりいい顔はされなかった。だが、当時の私には二択しかなかったのだ。人に近づいて爆発させ怒られるか、遠ざかって平穏を得るか。それしかなかった。
人に近づいても爆発させない解法があるのなら、それが欲しかった。いくら鈍い私にだって、そこでの正解が「人に近づいても爆発させない」という結果であることくらい理解していた。解法どころか、とっかかりもつかめないので、人から遠ざかるのが私にできるベストだったのだが。
うつ病を発症してASDの診断も受け、社会人になって人間関係のあり方や必要性が大きく変化して、私はいくつかのことに気づいた。
私は相手そのものではなく、相手の仕事や成果物を見ていること。仕事や成果物以外での相手との関係の形成を望む気持ちがほぼゼロに等しいこと。私が欲しい結果は「(私を評価する人に)怒られない」であり、「誰かと親密になる」ではないこと。
人間関係における解法が欲しいとは発達障害の当事者からよく聞かれる言葉だが、私はそもそもその解法通りのことを自分でやる意味も感じていない。AIが代わりにやってくれたらいいのに、と本気で思っている。おそらくだが、他の当事者達は「自分で」うまくやりたいから解法が欲しいのだろう。
ここまで考えて、私はもう選択の自由を手にしているのだと改めて強く言い聞かせる。人間関係をうまくやれと押しつけられる子どもではない。仕事に支障のない程度にやり取りし、また仕事も自分の苦手なコミュニケーション形態を避けてやればいい。私は大人だから、それが可能だ。
まして、仕事でないのならなおのこと、解法を追い求める必要もない。「人に近づいても爆発させずうまくやらねばならない」とする抑圧から、解放されていい。
私に必要なのは解法ではなく、解放なのだから。
もしその結果私の生存が危ぶまれるなら、それはこの社会の機能不全でしかない。私は、誰もが私的な人間関係をやる/やらないをフラットに選べる社会を理想としている。