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春は私の外に咲く

私はいつも、自分の奥の方を知ろうとする。

深く深くに入っては、もっと奥にまだ本物の感情があるのではないかと考える。

おかげで会話の瞬発力が無いし、今持っている自分の気持ちや自分の発言が本心なのだろうかといつも疑う。

そうやって内側のことばかり気にするせいで、自分の外側で起こったことに疎くなったように思う。


先日、本多哲郎(唄人羽)さんのソロライブに行った。

ギター1本。

少ない音でたくさんの唄を聴いた。

知らない唄、馴染みのない唄がたくさんあったものの、珍しいことに耳が人見知りせず、しっかり聴き入れた。

世界観というのは大袈裟に聞こえてしまうから空気感と言わせてもらうと、空気感がその時の自分にしっくりと当て嵌まったからなのかもしれない。


そんなしっくり空間の中で、哲郎さん(と、唄人羽)の唄は外側を広く見せてくれることが多い気がする。と思った。

景色はもちろん、自分以外の誰かや、匂い、光、音。

外側に広がるいろんなものを使って、感覚や感情を表現したりする。

ぐっと内側に入ったと思ったら、ふっと外側に視線を向けたりする。

内側にぐっと入ったからこそ外側にふっと視線を向けた時、より一層世界が広く感じるのかもしれない。

だから唄の間は、内側に籠りがちな自分をとても広い場所に置ける。

そこにスーッと哲郎さんの透き通った声が通る。

握っていた拳を解いたところに風が当たる。それに似てる。

ちょっと外側を見てみたらどうですか。カーテン開けときますね。

と、言われているみたい。


唄を聴きながら、哲郎さんの姿や、横にあるランタン、ルービックキューブみたいな何か、出番を失ってハーモニカ置き場になったカホン、照明、ペットボトル、カメラ、ビール。いろんなものを見た。

それらは全部、私の外側にある。

たまに目を閉じてみたりすると、外側は何も見えなくなって、自分の内側に入れた。

自分の内側で、外側にあるいろんなものを感じた。

これはあれに似ている。アレはコレに似ている。とかなんとか思ったりした。

自分の内側に籠って、奥の方の感覚や感情を深く深く知ることはとても大切で、絶対に必要。

ただ、外側にあるもののおかげで、私は内側の感覚や感情に気付けることもあるのかもしれない。と、思ったりもした。

季節は自分の外側にあって、春は私の外側に来る。

大切な人も、それが自分以外の人なら自分の外側にいる。

もちろん、心の中にも春は来る。

もちろん、心の中にも大切な人はいる。

とは思う。そう信じてる。

信じてるけど、外側に来る春の色や音や匂いを見て聞いて感じていないと、自分の内側にも来るであろう春を見つけられないかもしれない。

外側にいる大切な人としっかり向き合って、見て、話して、聞いて、触れていないと、自分の内側にいるであろう大切な人を見つけられないかもしれない。

自分の内側を広げたいなら、自分の外側に目を向けないといけないのかもしれない。

私はずっとズルをしていたのかもしれない。

見たくない聞きたくない知りたくないと全部を塞いで、ただ何もない真っ暗な自分の内側に引きこもって。

暗闇を眺めるだけでそれを考えたことにして、結局うわずみの感情や感覚だけを汲んでいたのかもしれない。

"宿題やったけど持ってくるの忘れました"と、同じくらいズルかったかもしれない。


きっと哲郎さんは日常の中でいろんなものをしっかり見て、しっかり聞いて、しっかり感じて、自分の中に取り込んでいるんだろう。

だからこうやって感情や感覚を美しく、広く、深く、優しく、言葉や音や表情にできるんだろう。

そうか。

それなら、外側にあるもの、起こることをちゃんと取り入れよう。

目を開けて見て、イヤホンを外して聞いて、深呼吸して匂いを感じよう。

大好きな「陽炎」に包まれている時、目の前で哲郎さんが唄う姿を見ながら、その優しくて力強い声を聴きながら、マスクの中に広がるビールの匂いを感じながら、特に強くそう思った。

ちょっと外側を見てみたらどうですか。カーテン開けときますね。

本当にそう言われたみたいな時間だった。



数日後、スーパーに行く途中、いつものように近所の小学校の横を通った。

顔を上げると、校庭の桜が満開になっていた。

何度も同じ道を通ったはずなのに、私は満開になるまで桜を見ていなかった。蕾すら見ていなかった。

桜は急に満開になったわけではない。

でも、私の中では急に満開になった。

あ。春、咲いてる。

蕾を追うように眺めていた毎年の春とは違う心の揺れ方でそう思った。

桜、咲いたなあ。

とも違う感覚だった。

そう思うのと同時に、ライブで見た哲郎さんの柄シャツとビールとカホンが浮かんできた。

もしも今後、私の内側で同じような心の揺れ方をすることがあったら、私はそれを"春が咲いた"と言い、あの光景を浮かべるんだろう。

私が外に来た春をちゃんと見たから、それを感じられるようになった。


『春が咲いたら』と名付けられたライブ。

"家に帰るまでが遠足です"の原理と同じで、私が"春、咲いてる"と思ったその時までがライブだったのかもしれないなぁ。


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