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良い見本と悪い見本

見本とは基本的に「見習うべき良いもの」として使われる言葉ですが、見本には良い見本と悪い見本があります。

後者の「悪い見本」とは逆説的な言葉であり通常は「見習ってはいけない悪いもの」として使われます。

私たちはこの悪い見本を「真似しないように」とし、そのような行為を慎むことを主としていますが、この悪い見本は自己を戒め律すること以外にそれらから多くを学ぶことが出来ます。

1. なぜそれは悪い見本なのか


2.なぜその人はそれをするのか


3.どうすればその人はそれが間違いだと気づき、それを認め改めるのか


例えば上記3点を考えることにより、私たちはその悪い見本から多くを学ぶことが出来ます。

学校の教科書では基本的に正しいことを中心に書かれていますが「人生という教科書」には時に間違ったことが書かれており、上記の通り私たちはそこから多くを学ぶことが出来るわけですが通常はそこに意識を向ける方々はかなり少ないのが現状のように思います。



私たちが悪い見本だと認識したものを目の当たりにした時、


なぜそれが間違いなのか

なぜ人はそれをするのか

どうすれば人はその過ちに気づき自己を改めるのか


そこまで考える方々がどれだけいるでしょう。

人生という教科書で反面教師に出会った時、私たちはただそれを個人的見解から批判するだけでなく、上記3つの疑問について考えることでさらに見えてくるものがあるのかもしれません。

それが出来た時、私たちは客観性という偏りのない多角的視点で物事を捉えることが出来、怒りに囚われることなく愛を持って接し対処出来るのだと思います。


悪い見本、それらは単なる悪い見本ではないのかもしれません。

時にそれは自分の写し鏡であり、また時にそれは自分を成長させてくれるための教科書なのかもしれません。

悪い見本、見習ってはいけない見本、それらに対する単なる批判に終始することなく、それらに対して自分はどう対処し立ち回るか。

戦略的に相手に迎合し我が身を守るか。

または戦うか。

それとも相手をいなしながら、かわすか。

もしくは反応せず自身の内なる心の平静を保つことに努めるか。


人生には見習うべき良い見本もあれば悪い見本もあります。さらに悪い見本は往々にしてこちら側に立ち入り私たちに絡んでくることにより影響を及ぼしてきます。

悪い見本、それは単に人の振り見て我が振りを直すことだけでなく、なぜその人はそれをするのかを考え、人の内側にあるものを知り、それにより物事を冷静かつ客観的に見ることが出来、そして自分はどうすることが正しいのかを考えることにより同時に自己の内観に繋がるものなのだと思います。

現代の子供の多くは親の良いところを真似ず親の悪いところほど真似るものです。

私たち大人は自己を戒め、律し、前途ある若者の模範となり良い見本、手本としての立ち振る舞いを日々心掛けたいものです。



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end
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