たべもののまわりのはなし②:耐熱ガラスのボウル
もともとうちには金属のボウルがあったが、わざわざ耐熱ガラスのボウルを買い足した。金属のボウルはレンチンできないからというのが理由だったけど、耐熱ガラスのボウルは導入してみると最高に愛せる存在であった。
まず最初の理由であるレンチン、これはもう素晴らしい。硬い根菜もふわっとラップしてレンチンしてからの料理だと時短になるし、時短で言ったら発酵もレンジでできる昨今やはりガラスのボウルがありがたい。
予期してなかった喜びとしては透明な見た目が大きい。茹でたての素麺を冷たい水とゴロンゴロンの氷と一緒にボウルに入れたとき、あまりに綺麗でちょっと感動しちゃった。あと実用的なところで言うならば、底までちゃんと混ざっているか確認できるのも嬉しい。
ほかに嬉しいポイントを挙げるならお手入れだ。どんなに脂っぽいものを入れてもガラスなので洗い上がりがツルツル。ベタつきがかなり苦手なタチなのでそんなところも好きである。
なのでうちでは何となくガラスボウルの出番が多い。でも金属のボウル、それはそれで好きだ。軽いのでお米を洗うときは金属の方を手に取るし、電動泡立て器使う時も割れないから手に取る。
台所道具は一石二鳥も三鳥もやれるタイプのものが好きだ。2wayで着れる服は大抵1wayでしか着ないけど、キッチン道具はなんとなく別なのである。というのも、あまり沢山のものを仕舞い込むのが得意でないのだ。私はもともとミニマリストとは程遠くなんなら蒐集気質も全然ある性格で、長年の友人はむしろ素材別に専用のナイフを揃えてるとか、いろんなスパイスをガラス瓶に入れてディスプレイ収納をしていると言う方がしっくりくると思う。
お台所はそもそもの性格とは離れた位置にある場所のように感じる。沢山の専用の道具たちが息を潜めて出番を待つ場所にするよりは、あらゆる戸棚に滞りなく空気を巡らせたい。道具の管理が面倒ともまた少し違う、切り分けられた自我みたいなものが空間全体にある。暮らしを始めてからずっと不思議な存在であるが、同時にとても心地よい。
必要にかられて台所道具を買い足すとき、心の動きが本当に自然なのが面白い。あと、無理に欲しがって買ったり逆に無理に捨てたりすると決まって後悔や持て余しが残るけど、それもない。耐熱ガラスのボウルもふと「あ、要るな」と思って買い足して毎日のように使っている。たぶん、いわゆる身の丈というものが少し変化したときに自分に必要/不要なものが見えて、それに素直に従うのが私にとって大事なことなのだと思う。
我が家において耐熱ガラスのボウルはいわば空気みたいな存在、だけど、ただ空気として扱うにはちょっと嬉しさがあったりするので…山が近い場所の朝の空気みたいなものだとしておきたい。
耐熱ガラスのボウル、大好き。