不要不急だけど必要なこともある

今日、年上の友人?たちと、4時間もディスカッションする機会があった。ミーティングを招聘したのは建築家なので、当然に施設建設やら街づくりやらがメインテーマなのだけれど、議論は子育てから政治から果てはカントまで、どこまでも広がって行き、終わらせるのが大変な程で、最も年長の先生が、「疲れた」と言い出して尚、30分ほどは続いた。


コロナのおかげで、不要不急という言葉が世の中を席巻し、自覚としてはコロナ以前とほとんど変わらない生活を送っている私でも、これは不要不急か必要か、と無意識に物事を選別していることに、ふと気付く。


経済は変遷し、国を置いていく

という話が出た。

かつて世界の中心はオランダからスペインポルトガルへ移り、大英帝国が世界を席巻し、その後パクスアメリカーナの時代となった。(その間に日本が世界の中心となった瞬間もあった)次はインドか中国か、という議論はさておいて、東京オリンピックやら大阪万博やらは、日本という国が上り坂にあった時には、確かに必要だった。

しかし、今の日本は、明らかに下り坂である。

下り坂にいるときに、上り坂にいるときと同じ手立てを講じたとて、うまくいくはずがない、というのは子供でもわかる道理だと思う。

そして、国、というものを一個の主体として見たとき、これらは不要不急であり、不必要なものに成り下がってしまう。


では翻って、今の下り坂の日本という国に必要なものごとは何か。

下り坂は楽に見えて、膝に負担がかかって辛い。上手に下り坂を下るのには筋肉が必要なのだ。日本には、先人たちの築いた高度に発達したインフラという筋肉がある。これらをメンテナンスしつつ、最適化を図りながら、豊かに下り坂を歩くことが、今必要なことなのではないかと思う。


貨幣経済が発達して、人はカネという目に見えない価値を至上のものとする宗教に入信した。しかし、今必要なのは、モノそのものの持つ価値であり、モノや人を活かす知恵なのだ。

生まれてきた以上、我々は生きている。

生きていることに、理由はないのに、生きていることに目的や価値や夢や何かを求めなければいけないと思い込んでいるのは、やはり何か間違っていると思う。だって、もうすでに生きているんだから。


その、生を、できる限り楽しく豊かにしようとすることこそが、本来の努力であって、努力とは辛く険しい修行の道では決してなかったのだと思う。


と、まぁこんな話を4時間もして(ここに書いたのはほぼ私の主張だけども実際に喋っていたのはほぼおじさま方)、お開きになったところで、「女がいるミーティングは長くなりまして」と言ってみたら、めちゃウケた、笑。


一応付け加えると、森さんは私も実際にお会いして印象が180度変わった、実にクレバーかつ実行力を伴う、稀有なお爺さんで、今回の騒動は、まぁ仕方ないかと思いつつ、少し残念な思いもしている。

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